ザイナブ 米国出身の元キリスト教徒(前半)
説明: 少女ザイナブはキリスト教に深く関わりますが、そこに何かが欠けていると感じます。
- より ザイナブ
- 掲載日時 14 Jul 2014
- 編集日時 03 Aug 2014
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これは、私が最も良くされる質問である「精神性」「改宗」「改宗に際しての家族の反応」「イスラーム改宗後の私の将来像」についての非常に長い詳細の説明です。
いいえ、私は男友達の影響で改宗したのではありません。
精神性
私は幼い頃から神に強い関心を持ち続けてきました。私は多くの子供たちと同じように、星や雲を眺めては、神とは誰なのか、何なのか、どこに居るのか、なぜ存在するのか、そしていかなる存在なのかと不思議に思っていました。神の存在を確証するため、私は擬似実験ともいえるものを実行しました。たとえばテーブルにコップを置き、神の存在を証明するために「それを動かしてください」と頼んだりました。何の結果も得られなかった私は、物や時間を変えたり、それを直接見なかったり(神は私がそれを目にするのを望まないのかもと思ったため)と、様々な手法を試しました。別の機会では、どのような祈り方が実際に「効果」をもたらすのかと、色々な方法で祈りました。顔や膝を地面につけたり、横たわったり、目を閉じたり、姿勢を正したり、指を真っ直ぐにしたり、嘆願したり、犠牲を捧げたりして、「神よ、もしも自転車をお授けくだされば、私はもう二度とアイスクリームを食べません」と祈ったりしていました。しばらく経つと、私はもし私が神の存在を証明するために神に頼んだことを神が叶えてくれたのであれば、もしくは私が望む結果をもたらす礼拝方法というものが存在したのであれば、神ご自身ではなく、私自身が神ということになってしまうことに気が付きました。
私はキリスト教徒として育ち、成長すると共に様々な教派の教会を訪れ、いかに彼らが神の存在を確信したか聖職者たちに尋ねました。この質問は彼らが最も頻繁に尋ねられるものだと思っていましたが、実際には彼らは殆ど全くその質問をされたことがなく、さらに驚くべきことは、大抵の場合、彼らはその質問をされることを快く感じていないようでした。その後、私はその質問に抵抗感を示すどころか、喜んで答えてくれた上、切実な探究心を感謝してくれる牧師に出会いました。彼はライス大学を首席で卒業した知識人でしたが、より重要なこととしては、彼が非常に精神的な人物だったということです。彼は私が抱き続けてきた全ての質問に答え、様々な精神論や信条について教えてくれ、私の礼拝の仕方を(プレゼントリストに書かれたものを何もかも請い願う子供のようなものから、神の導きを受け入れ、その指示に従う者による成熟した瞑想的祈りへと)変革してくれました。彼と彼の妻と知り合えた私の人生は祝福されていました。
16歳になった私は、日曜学校で子供たちを教えるようになりました。私は子供たちに神について教えることが世界中の何よりも好きでしたし、それが神によって与えられた才能だと信じていました。教師としての経験の中での面白おかしい逸話は沢山ありますが、それらについて語りだすと、この既に長い文章がさらに長くなってしまいます。
その一年後、私はキリスト教指導者育成学校に通うよう勧められました。そこではさらに役立つ精神的原則を学べただけでなく、キリスト教における議論の強みと弱みについて牧師たちが学んでいることを知ることが出来たため、とても価値ある経験でした。これによって、私はイスラームのキリスト教に対する強い議論の基盤を身につけることが出来たのです。
翌年、私は身体的・精神的・感情的な苦境にある人たちのための「ヒーリング・チーム」への奉仕者としての所属を勧められました。そこで私はそれまでに出席した中でも最高の教会の中で、最高の人々に囲まれていたため、とても幸運に感じました。私はグループの中でも年少者で経験もなく、完全に能力の劣る立場にありましたが、彼らには私の求めていたような知識があったため、私はそこに留まりました。私は常々、悲惨な状況下にある人々に対して「何を言うべきか」や、「何を言ってはならないべきか」を知りたいと思っていました。私はチームの人々が気付かない限りは彼らにそのことを言わないでおこうと決めました。ここでも、私は最も尊敬すべき人々と付き合うことが出来て、自分の人生がそれに値しないほどの祝福を受けていると感じました。しかし、時々私は彼らのレベルには遠く及ばない状態であったため、私は部屋を見回しつつセサミ・ストリートの歌について考えていました。
“これらの一つは他とは違うんだ。これらの一つは属していないんだ。”
このヒーリング・チームでも、多くの面白く興味深い逸話が生まれましたが、ページ数の都合上、ここで語ることが出来ないのは残念です。
ある時点において、私はチームメンバーの同僚たちを、精神的に最も優れ、賢明であると見なし始めていました。彼らはあらゆる面で私に優っていましたが、彼らは私がその年齢に達したとき、そうあろうとしている姿ではないと感じていました。私はキリスト教において神からの距離感を感じていました。私はこのことを牧師と話し合い、自分が神との関係をもっと築きたいと言いました。彼はムスリムたちが一日に5回礼拝していることに言及し、私がより多く礼拝を捧げてみてはどうかと示唆しました。もちろん、彼は私のイスラームへの興味をそそるつもりはなかったのです。しかし結果的には正反対となりました。
また、私はキリスト教に対しての問題を抱えていました。天国が与えられるのは、イエスを救世主として認めることであり、善行や悪行は関係ないという概念は、私にとってはまったく理にかなわないことでした。キリスト教においては、理論的にはその人生において毎日罪を犯し続けた人物であっても、死の一秒前にイエスを救世主として認めるのであれば天国に行くのです。またその人生において毎日善行に尽くした人物であっても、イエスを救世主として認めなければ永久に地獄で苦しむのです。こんなに筋の通らないことなどあるでしょうか? キリスト教は他にも多くの問題を抱えていますが、ここでの言及は省略することにします。
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