ダイアン・チャールズ・ブレスリン(元カトリック教徒、アメリカ合衆国) (パート1/3 )

評価:
フォントサイズ:
A- A A+

説明: ある厳格なカトリック教徒が聖書を読んだ後に信仰を失うが、その後の神への継続的な信仰が彼女を他の宗教の探索へと導く。

  • より ダイアン・チャー?
  • 掲載日時 05 Dec 2009
  • 編集日時 05 Dec 2009
  • プリント数: 478
  • 観覧数: 19,088 (日平均: 4)
  • 評価: まだありません
  • 評価者: 0
  • メール数: 0
  • コメント日時: 0
低水準 高水準

どのようにムスリムになったかと尋ねられる時、私はいつも、自分が唯一無二の神を信仰する者になることを感じていた、と答えたものでした。そしてイスラームと呼ばれる宗教とクルアーンと呼ばれる本についての話を聞いた時、初めてそれがどういう意味だったのかということに気付いたのでした。しかし、まずは私のアメリカ人としての圧倒的伝統である、アイルランド・カトリックの背景についての簡単なあらすじから始めさせて下さい。

本当に私はカトリック教徒でした

私の父は、宣教師養成訓練のための3年の務めの後、神学校を去りました。彼は 13人兄弟の長男で、その全員ともにボストン地区で生まれ育ちました。彼の二人の姉妹は彼の母方の叔母がそうであったように、修道女となりました。彼の弟も神学校に在籍し、9年の後ちょうど最後の誓いの前に退学しました。私の祖母は家の他の者が寝ている間、地元の教会の早朝ミサへ行くために着替えて丘を登るのため、明け方起床していました。私は彼女がその時代では非常に珍しいことに、非常に厳しく、優しく、公正で、そして強い-女性であったことを覚えています。私は彼女がイスラームについて聞いたことがなかったことを確信していますが、神が彼女の心に信仰があったと判断されることを祈っています。イスラームが唯一神を奉じる宗教であるということを聞いたことがない多くの人々は本能的に、先祖からの様々な宗派の標札を受け継いでいたのでした。

私は4歳でカトリックの保育園に在籍させられ、その後の私の人生の12年間は、三位一体的教化に覆われていました。十字架は修道女たちや教室の壁、ほぼ毎日出席する教会、そして私の家のほぼ全ての部屋にいたるまで、あらゆる場所にありました。言うまでもありませんが、その像や聖なるイメージ‐そこにはいつも赤ん坊のイエスと、彼の母マリアが描かれていました‐には常に白人的・英国古典主義風な趣があり、時には幸せそうに、時には悲しそうに映ったものでした。そして聖日が近づいて来ると、様々な種々の天使と聖人の絵が登場しました。私は自分の寝室の隣、2階廊下にある聖母マリア像の花瓶に挿すブーケを作るために、庭からライラックやユリの花摘みをしたことを鮮明に覚えています。そこで私は膝まずいて祈り、新鮮な摘みたての花の心地よい香りと、穏やかな風景に、マリアの長い栗色の髪の美しさを鑑賞し、楽しみました。私は一度も彼女に対しては祈ったことはなく、また彼女が私を助ける力を持っていると感じたこともなかったことを断言できます。夜ベッドでロザリオの数珠を握る時も同じでした。私は、主と、聖母マリアと、栄唱の儀式的祈りを父と子と聖霊のために繰り返し、その間中ずっと上を向き、本心では「唯一全能であられるお方よ、私はあなただけであることを知っています」と言っていました。それが自分で学んだ全てのことだったのです。

私の12歳の誕生日に、母は聖書をくれました。我々はカトリック教徒として、バチカンにより認可されたボルティモア問答以外のいかなるものも読むようには奨励されていませんでした。どのような相対的内省も否定され、けなされました。ですが私は、自分が期待していたことがそこに説明されていること、そして創造主について知ることを望みつつ熱心に読み続けました。しかし私は更に混乱したのです。その本は明らかに人間の作品であり、矛盾に満ちており、信ずることが難しいものでした。しかし繰り返して言いますが、当時の私にとってはそれしかなかったのです。私の同世代の慣わしに漏れず、私の教会への出席は10代半ばで終わりました。そして20代になる頃までには、私は正式な宗教を基本的に持っていませんでした。私は仏教、ヒンドゥー教について沢山読んだり、地元のバプテスト教会さえ何カ月間か試したりもしました。しかしそれらは私の注意を引くほどではなく、前者はエキゾチック過ぎ、後者は田舎過ぎました。しかし形式上宗教を実践していない年月を通しても、私が“神との会話”をせずに過ごした日はありませんでした。特に眠る時にはいつも、全ての祝福に感謝の念を述べ、私に降りかかっていた全ての問題への助けを求めました。私が呼びかけていたのは、唯一無二のお方でした。かれは必ず私を聞かれておられ、私はかれの愛とご加護を確信していました。これは誰が教えてくれたというわけでもありません。単に純粋な本能から生じるものでした。

低水準 高水準

この記事の一部

全部観覧する

コメントを付ける

  • (非公開にする)

  • あなたのコメントは審査の後、24時間以内に反映されます。

    星印 (*) の付いている項目の入力は必須です。

同カテゴリからの他の記事

観覧

毎日
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
合計
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)

編集者のおすすめ

(もっと 読む...)
(もっと 読む...)

リストの内容

あなたの前回の訪問
このリストはまだ空です。
すべての日時
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)

最もポピュラーなもの

最高の評価
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
最多のメール送信数
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
最多のプリント数
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
最多のコメント数
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)
(もっと 読む...)

あなたのお気に入り

あなたのお気に入りリストは空です。 記事ツールから、このリストに記事を追加することが出来ます。

あなたの履歴

あなたの履歴リストは空です。

Minimize chat