イスラームにおける崇拝行為(3/3):崇拝行為の包括性について

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説明: ムスリムの全人生は崇拝行為と変化しうること。創造主と創造物間の調和という本来の状態への回帰。

  • より IslamReligion.com
  • 掲載日時 06 Dec 2009
  • 編集日時 12 Dec 2009
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前述したように、イスラームにおける崇拝行為の意味とは、私たちの知覚、思考、感覚と言行などが全て含まれる包括的なものです。これには神が要求する外的または内的なもの、そして人との相互関係、さらには儀礼、信仰、仕事、社会活動や個人的素行も同様に含まれます。

善と悪、そしてその中間のものには、それらを区別する一つの基準があります。つまり善いものとは神によって創られた目的とその先天的性質に従うものです。それは調和へと導き、また闘争や災難を排除するゆえ、それ自体が一つの報奨です。この基準に当てはまるものは何であれ、必然的に崇拝行為の形の一つであると言えるでしょう。

私たちの人生の目的が善行を行ない、悪を忌避することによる結果としての神のご満悦を得ることであるとすれば、この崇拝行為に関するイスラーム的理解は、私たちの人生をまるごと崇拝行為にすることが可能なのです。私たちは自己の意図を清め、それらの行為によって純粋に神のご満悦を得ようと努めるのならば、日常生活のあらゆる諸事を崇拝行為へと昇華することが出来るのです。神の使徒(彼に神の祝福あれ)は次のように言われています:

“誰かを、またはその所有物を、彼の乗り物に乗せてあげることは一つの善行である。また良い言葉は一つの善行である。礼拝の場へと向かう一歩一歩はそれぞれが一つの善行であり、道に落ちた障害物を取り除く事もまた一つの善行である。”(サヒーフ・ブハーリー)

生活の糧を得ることは崇拝行為の一形態に数えられます。教友たちはある時非常に勤勉な人物に出会い、驚愕しました。しかし彼らは、“もしも彼がこれらの仕事を神ゆえにしていたのであれば・・・”と嘆いたのです。

神の使徒は次のように言われました:

“もし人が働き、幼い子供たちを養育するために働くのならば、それは神の為なのである。もし彼が老いた両親を養うために働くのであれば、それも神の為なののである。またもし彼が自分の欲望を抑制するために自らを統制しようと努力するのであれば、それはもまた神の為なのである。しかし、もしそれが世間への誇示や名声を得る目的なのであれば、その行いは悪魔の為にされているのである。”(アル=ムンズィリー、アッ=スユーティー)

私たちの行なう最も自然な行為でさえ、そこに適切な意図が加わっていれば崇拝行為になるのです。神の使徒はこう言われました:

“あなた方が自分の妻との関係を持てば、それは一つの善行なのです。”(サヒーフ・ムスリム)

食事、睡眠、仕事、また人の性格における正直さ、真面目さ、親切さ、勇敢さ、謙遜などの良い特性も、切実な意図と神への服従を伴えば、崇拝行為となるのです。

但しこれらの平凡とも言える行為が、神に報われる崇拝行為行為と見なされるには、以下の条件が満たされなければなりません:

1.その行為が適切な意図を伴っていること。神の使徒はこう言われています:

“行為は意図によって決まるのである。何かを行なう者は、その意図したものを得るのだ。”(サヒーフ・ブハーリー)

2.行なわれる行為及びその対象が、合法とされるものであること。もしもその行為が禁じられたものであれば、それを行なった者は処罰の対象となります。神の使徒は言われています:

“神は純粋、そして善であり、かれは純粋なものと善いものしか受け入れられない。”(サヒーフ・ムスリム)

3.イスラーム法が命じるころのものを完全に遵守していること。欺瞞、圧制、不正行為などは、そこにおいて回避しなければなりません。神の使徒は言われています:

“私たちを欺く者は、私たちとは無関係である。”(サヒーフ・ムスリム)

4.その行為によって宗教的義務が疎かにならないこと。神はこう仰っています:

“信仰する者よ、あなた方の富や子女にかまけて、アッラーを念じることを疎かにしてはならない。そうする者(アッラーを念じない者)は、自らを損なう者である。”(クルアーン6:3-9)

ここから分かるように、イスラームにおける崇拝行為の概念は、単なる禁欲主義、瞑想、神が私たちを創造した現実の開悟などに限定されてはおらず、また儀式主義や明確な意味をもたない行為の遂行に基づくのでもありません。イスラームは内面と外面の両方を組み合わせ、正しさとは何かを明確に規定し、その報奨を約束するのです。この包括的な崇拝行為に関する概念によって、人間は創造の目的を達成することが出来ます。神はこう仰っています:

“ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。”(クルアーン51:56)

人間は自分の主観的欲望や、何も考えない受身主義、あるいは精神状態や社会、政治、学問的権威などによる命令に従って生きるのではなく、私たちの中に本来存在している宇宙の目的、すなわち神への崇拝という目的をもって生きるべきなのではないでしょうか。

“それであなたはあなたの顔を純正な教えに、確り向けなさい。アッラーが人間に定められた天性に基づいて。アッラーの創造に、変更がある筈はない。それは正しい教えである。だが人々の多くは分らない。”(クルアーン30:30)

人がその人生の中で神の禁じられたものを避け、神の意思に従うことによってその命令を履行するのであれば、彼の人生は昼夜を問わず、あたかも誕生から死の間際まで崇拝行為をしているような状態となり、報奨に満ち溢れたものになるでしょう。これはまさに預言者たちの状態と同じなのです。神は仰っています:

“実に私の礼拝と奉仕、私の生と死は、万有の主アッラーのためである。”(クルアーン6:162)

この状態を達成することは、無意識に神を崇拝行為している他の全創造物と調和することであり、創造の本来の姿に戻ることなのです。神は仰っています:

“あなたは見ないのか、天にある全てのものがアッラーにサジダ(称揚して服従・奉仕)するのを。また地にある全てのものも、太陽も月も、群星も山々も、木々も獣類も、また人間の多くの者がサジダするのを見ないのか。”(聖クルアーン 第22章18節)

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