創造の目的とは(1/3):序説
- より Dr. Bilal Philips
- 掲載日時 04 Jan 2010
- 編集日時 16 Jul 2023
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序説
創造の目的とは、あらゆる人間が一度は頭を悩ませるテーマです。誰もが人生のとある時点で、“なぜ私は存在するのか?”、または“私がこの地球に存在する目的とは何なのか?”という疑問を持つことでしょう。
人間、そしてこの世界を構成している多彩で難解なシステムは、それらを創造した至高者の存在を暗示します。設計には設計者が伴うものです。私たちは海岸で砂の上に残された足跡を見つけると、そこを少し前に誰かが歩いたのだろうということを直感的に結論付けます。それが海からの波によって、人間の足跡そっくりな窪みが偶然形成されたものであるなどとは誰も予測しません。このことと同様、人は本能的に、何の目的もない存在として創られたと結論付けたりはしません。はっきりとした目的のある行動こそが人間の知恵による自然な産物であるため、人間は至高かつ叡智に満ちた存在が特定の目的のために自分たちを創造したのであると結論付けるのです。従って人間は人生の意義を理解し、最終的に有益な行動を起こすために、自分たちが存在する目的というものを知らなければならないのです。
しかしながら、神の存在を否定した人々というのは歴史を通して存在して来ました。彼らにとっては事象というものは永遠であり、人類は単なる偶然出来た元素の組み合わせにより発生したものである、という見解なのです。その結果、彼らにとって“なぜ神は人間を創ったか”という質問には何の答えも見出せません。彼らは存在の目的など無いとします。しかし歴史を振り返れば、圧倒的多数の人々はこの世界をある目的と共に創造した至高者の存在を信じて来ましたし、今なお信じ続けています。彼らにとって創造主と人間の存在理由を知ることは重要なことだったのであり、依然として重要なことなのです。
答え
“なぜ神は人間を創造したのか?”という質問に答えるためには、まず最初にどの観点からそれが問われているのかを見極めなければなりません。神による見解であれば、“神が人間を創造した原因は何か?”という意味になるでしょうが、人間による見解であれば、“神が人間を創造したのはどのような目的によるものか?”という意味になるでしょう。双方の観点は、“なぜ私は存在するのか?”という興味深い質問の側面を表現します。この二つの質問を、啓示による明瞭な描写に基づいて調査していきましょう。これは人間の推測といったようなテーマではありません。なぜなら人間による当て推量は、こういった問題に関して完全な真実を導き出すことが出来ないからです。自らの脳、そしてより高度な存在である精神の働きに関する理解が完全でない現状において、いかにして人間は自らの実在に関する知的な推論が出来るでしょうか?それ故、この問題をこれまで思案してきた多くの哲学者たちは無数の答えを導き出して来ましたが、それら全ては証明することの出来ない、仮説の域を出ませんでした。このテーマに関する質問は多数の哲学者によって、私たちは実際には存在しておらず、全世界は幻想に過ぎないという主張まで生み出しました。例えば古代ギリシャの哲学者プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)は、人が知覚によって知り得る可変性の日常は真の実在ではなく、その陰に投影されるうわべの現象に過ぎないとしています。また前述したように、その他の多くの者たちは人間の創造には全く目的が存在しないと主張し続けます。彼らによると、人間の存在は偶然の産物に過ぎないのです。もし、無生の物質がただ単に全くの偶然から有生に進化したのであれば、生命の目的はないということになります。人類の親戚であると言われる猿は存在について悩むことはありません。それではなぜ人類はそれに関して悩むべきなのでしょうか?
大半の人々は、私たちが創造されたのはなぜかと、時折しばらく考え込んだ後に頭の隅に追いやってしまいますが、人間としてその答えを知ることは極めて重要なのです。正しい答えの知識がなければ、人間はその周りにいる動物と区別が付かなくなります。飲食や生殖などの動物的欲求が人間の存在する目的となれば、人間の努力はこれらの限られた領域に集中します。物質的な満足が人生において最も重要な目的に発展してしまえば、人間の存在は最も下等な動物のそれよりも堕落します。人間に自らの存在目的という知識が欠けていれば、神に与えられた知性を常に誤用することになります。堕落した人間の精神は、その能力を麻薬や爆弾などの創造に使用し、姦通、ポルノ、同性愛、占い、自殺などに熱中させるのです。生命の目的に関する知識が無ければ人間の存在はあらゆる意味を失い、常に無駄なものとなり、来世における永久の至福という報奨は完全に消失されるのです。それ故、“なぜ私たちはここにいるのか?”という質問に人間が正しく答えることは、極めて重要な問題なのです。
人間は常々、他の人間から答えを求めるものです。しかしこれらの質問に対し唯一、明瞭で的確な答えを得ることの出来るものは、神により啓示された諸啓典からのみなのです。神が人間に対し、預言者を介して啓示を下したのは、人間が自分たちだけの力では正しい答えに辿り着くことが不可能であるからなのです。神の預言者たちは皆、“なぜ神は人間を創造したのか?”という質問に答えています。
創造の目的とは(2/3):ユダヤ・キリスト教による答え
説明: 人類の歴史における最も難解な質問に関しての序説と、その答えを見つけ出すことの出来る源泉についての議論。第二部:このテーマに関するバイブル、そしてキリスト教徒の信条の概観。
- より Dr. Bilal Philips
- 掲載日時 04 Jan 2010
- 編集日時 04 Jan 2010
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ユダヤ・キリスト教啓典
バイブルの調査を行う真実探求者は、しばしば迷妄の中に取り残されてしまいます。旧約聖書は人類の創造に関する重要な質問への答えよりも、法や過去の人々、そしてユダヤ人に関して重点を置いているように見えます。創世記において、神は世界を創造した後にアダムとイブを六日間で創り、七日目には休息に入ったとされています。アダムとイブは神に逆らって罰を受け、彼らの子カインは自分の兄弟アベルを殺害し、ノドの地に移り住みます。そして、神が人類の創造に後悔をしたと述べられます。なぜそこには明確で間違えようのない表現で答えが記されていないのでしょうか。どうして多くの言い回しは常に象徴的で、読み手に対してその意味を推測させようとするのでしょうか?例えば創世記6:1−2には、以下のような既述があります。
“人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。”
‘神の子ら’とは一体誰のことを指しているのでしょうか?ユダヤ教の各宗派、そしてキリスト教の多くの宗派はそれぞれ異なった見解を示しています。どれが正しい解釈なのでしょうか?創造の目的の真実とは、過去の諸預言者によって正しく伝えられているのです。しかし彼らの追従者たちの一部は悪魔との共謀によって啓典を改変してしまいました。それによって答えは曖昧になってしまい、啓示の多くは象徴的言語によって隠されてしまったのです。神がイエス・キリストをユダヤ人に遣わした際、イエスは寺院内で商売を営んでいた商人の棚をひっくり返し、ユダヤ教徒のラビによって実践されていた儀式的な法解釈を否定しました。彼は預言者モーゼの法を再認識させ、復活させたのです。彼は弟子たちに人生の目的を教え、彼の現世での最後の時までそれを実践して見せたのです。しかし彼がこの世から去ったとき、彼の教えも同様に、彼に従ったと主張する者たちによって歪曲されてしまいました。彼のもたらした明確な真実は、彼以前の預言者たちと同様に曖昧にされてしまったのです。特にヨハネによる“啓示”により象徴主義が導入され、イエスに啓示された福音は失われてしまいました。人の手によって作られた別の四つの福音書は、失われたイエスの福音に取って代わる目的で、四世紀の司教アタナシオスによって選ばれました。そしてパウロとその他の者による二十三もの書物は新約聖書に含められ、福音四書の数をも上回りました。その結果、新約聖書を読んでも“どうして神は人間を創ったのか?”という質問に対する答えを見出すことは出来なくなりました。従って読者は、所属する宗派の教義への盲目的な追従を強いられるのです。福音は宗派の信条による解釈に基づいており、真実探求者は再び、何が正しいのかと迷うはめになるのです。
神の具現
人類の創造に関して、恐らくキリスト教宗派の大半が持つ唯一の共通項としては、神が人間の姿になって人間に殺されることにより、アダムとその子孫によって受け継がれた人間の罪を浄めるという概念が挙げられるでしょう。彼らによれば、その罪は巨大になり過ぎたため、どんな人間の償いや懺悔行為によっても、拭い去ることが出来ないものだと言うのです。神は途方もなく慈悲深いため、罪深い男はかれの御前に立つことが出来ないのだと言います。その結果、神による神自身の犠牲のみが、人類を罪から救うものだと主張するのです。
このような人為の神話は、教会によって唯一の救済とされるようになりました。結果、キリスト教における創造の目的とは‘神の犠牲’の認知、そしてイエス・キリストを主として崇めることとなったのです。これはヨハネによる福音書において、イエスに関連付けられた次の言葉で結論されています:
“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”
しかしながら、もしこれが創造の目的、そして永久の生命の必須条件であるのならば、なぜそれは全ての預言者によって説かれなかったのでしょうか?また、なぜ神はアダムとその子孫の時代で人間の姿となり、全人類が創造の目的を果たして永久の生命を得ることが出来るよう、平等な条件を与えることをしなかったのでしょうか?それともイエスよりも過去の人々には別の存在目的があったのでしょうか?神がイエスの話を実際に聞くことの出来ないよう運命付けた現代人は、創造の目的とされるものを果たす可能性が奪われています。そういった目的は、明らかに人類の要求を満たすには至極限定されたものなのです。
創造の目的とは(3/3):ヒンズー教の伝統
説明: 人類の歴史における最も難解な問題に関しての序説と、その答えを見つけ出すことの出来る源泉についての議論。第三部:ヒンズー教聖典の概観、そしてそのテーマに関する結論。
- より Dr. Bilal Philips
- 掲載日時 11 Jan 2010
- 編集日時 11 Jan 2010
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全ては神である
ヒンズー教の聖典では、神々の存在やそれらの化身、また神の人格について説き、全てはブラフマンという神であると教えます。しかしそこではあらゆる生物の我(アートマン)は実際にはブラフマンであるという信条にも関わらず、バラモンという司祭階級が生まれながらに精神的優越性を持つ、抑圧的なカースト制度が発展しました。彼らはヴェーダ(宗教文書)の師であり、儀式における清浄さや社会的威信といった理想を象徴します。一方で、シュードラと呼ばれる最下級層は宗教的地位から除外され、彼らの唯一の役割はカーストにおける他の三姓と、そこから派生する何千もの副カーストに対し“素直に従事する”ことなのです。
ヒンズー教の一元論哲学者によれば、人類の目的とは自らの神聖についての悟りであり、輪廻の車輪から解脱(モクシャ)する道(マルガ)を進み、人間の魂(アートマン)を究極の実存であるブラフマンと同化させることであるといいます。バクティーの道を歩む人々にとっての目的とは神を愛することです。なぜなら神が人類を創造したのは“父が子との関係を楽しむように、良い関係を持つこと”だからです(Srimad Bhagwatam)。一般ヒンズー教徒としては、日常生活でカーストを守り、伝統的儀礼・風習を続けることを主な目的とします。すなわち、法(ダルマ)の道です。
ヴェーダ宗教のテキストはその殆どが祭火への犠牲を中心としたものですが、それはヒンズー教の教義・実践によって浸食されました。ヴェーダの権威と神聖さは事実上、全てのヒンズー教宗派・伝統の中心的教義を占めています。ヴェーダは四つの書で構成されており、その中ではリグ・ヴェーダ(“節々の英知”)が最古のものと言われています。それらのテキストでは、極めて難解な表現で神が描かれています。リグ・ヴェーダによって映し出された宗教は、天や大気に関連した神々をなだめることを主要とする多神教であり、その神々の中でも最も重要なものとしてインドラ(天と雨を操る神)、ヴァルナ(宇宙の秩序の支配者)、アグニ(火神)、そしてスーリヤ(太陽神)などが挙げられます。後世のヴェーダ文書においては、初期リグ・ヴェーダの神々に対する関心が薄れ、あらゆるものを司るプラジャパティー(創造物の主)に対し犠牲を捧げる汎神論が取って代わるようになります。ウパニシャッド(宇宙の真理に関する奥義書)では、プラジャパティーは宇宙における至高の実在とされるブラフマンの概念と同化するようになり、その人格の全てを駆逐し、それらの神話を抽象的哲学へと変化させました。もし人類にとって、これらの聖典の内容が全ての導きだったのであれば、それは神が神自身と創造の目的の双方を人類から隠すためであったに他ならないと結論付けざるを得ません。
神は混乱の著者ではなく、人類に難儀を突きつける存在でもありません。ゆえにかれが最後の啓示を人類に下した1400年前、かれは人類の全世代に渡ってそれが保持されることを保障したのです。その最終啓示であるクルアーン(コーラン)において、神はかれの預言者を介し、人類の創造の目的について、人間に理解が出来るよう詳細を明確にしました。この啓示による基礎、そして預言者による解説により、私たちは“なぜ神は人間を創ったのか?”という質問に対しての的確な答えを導き出すことが出来るようになったのです。
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