預言者ムハンマド伝(5/12):移住の準備
- より IslamReligion.com
- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 21 Oct 2010
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ヤスリブから来た男たち
彼らはマッカから約400キロ以上離れた、後にアル=マディーナとして知られるようになる町ヤスリブから、巡礼(ハッジ)の目的でマッカを訪れました。ヤスリブは緑豊かなオアシスとして、現在でも良質のナツメヤシの産地として有名ですが、それ以外の部分では様々な不幸がもたらされていました。そこでは部族間の抗争が絶えることがなく、ユダヤ人たちはユダヤ人同士で、アラブ人たちもアラブ人同士で争っていました。アラブ人たちはユダヤ人と同盟を組み、他のユダヤ人と同盟を組んだアラブ人部族と争いました。マッカは繁栄していましたが、ヤスリブは荒廃しており、その住民を団結させる能力のある指導者を求めていたのです。
ヤスリブのユダヤ人部族の中には学識のあるラビたちがおり、彼らはたびたび多神教徒たちに対し、やがて彼らの中から現れる預言者に関して言及していました。そして彼が現れた暁には、過去に偶像崇拝のため滅ぼされたアードやサムードの部族のように、アラブ人たちを破滅に追いやるだろうと主張しました。
預言者ムハンマド(彼に神の慈悲と祝福あれ)は、まだその時点ではマッカの郊外で秘密裏にイスラームの布教を行なっていました。ある日彼はマッカの郊外にあるアカバにおいてある集団と出会い、同席を尋ねたところ、快く迎え入れられました。このヤスリブから来たハズラジュ族の男たちはムハンマドの教えを受け入れ、彼をユダヤ人が彼らに説明した預言者であると認め、そこにいた6人全員がイスラームを受け入れました。また彼らはこの新しい宗教によって、ムハンマドが彼らの部族とその兄弟部族であり同祖にも関わらず長年敵対し憎悪の対象となっていたアウス族との統合の助けになることを望みました。彼らはヤスリブに戻り、ムハンマドの説く教えを広めようと決心しました。その結果、ヤスリブではイスラームの教えを知らない家は一軒もなくなり、翌年の巡礼期である621年には、ヤスリブからの代表団が預言者ムハンマドとの面会に訪れたのです。
第一のアカバの誓い
この代表団は12人の男たちによって構成されており、前年からの5人、そしてアウス族からも2人が参加していました。彼らはアカバで預言者と再会し、彼らの名とその妻たちの名にかけて、神に何者をも同配しないこと(ムスリムになること)、盗み、姦通、生まれた女児の殺害をしないこと、そして全ての正しい事柄において預言者に従うことを誓いました。これが第一のアカバの誓いとして知られるようになったものです。彼らがヤスリブに戻った際、預言者は彼らのもとにムスアブ・ブン・ウマイルを大使として送り、新しい改宗者たちに信仰の基礎を教えさせ、依然としてイスラームを受け入れていない者たちのため、更なる布教をさせたのです。
ムスアブは、ヤスリブのほとんど全ての家庭の中に最低一人はムスリムがいるような状態になるまで布教を続け、翌年622年のハッジ前に預言者のもとへ戻り、彼の使命の吉報と、ヤスリブの人々の徳と強さを報告しました。
第二のアカバの誓い
そして622年、ヤスリブから2人の女性を含む、75人のムスリムからなる巡礼者がハッジを行うためにやってきました。その日の夜遅く、人々が眠りの最中にある頃、ヤスリブのムスリム巡礼者たちは事前に預言者と打ち合わせていたアカバの岩場に密かに集まり、預言者へ忠誠を誓い、彼をヤスリブへと招くことを協議しました。その場には預言者と共に、多神教徒ではあったものの、親族としての義理から甥を守り抜いた叔父がいました。彼はムスリムたちに対し、彼らの計画の危険性を警告しました。また、過去2年間の巡礼に参加した一人の巡礼者も立ち上がり、同じくその危険性と心構えを喚起しました。彼らの預言者への敬愛と決心の固さは、彼らが自分自身やその家族と同等のものでもって預言者を守るという宣誓をさせました。この時、ヤスリブへの移住である「ヒジュラ」(移住)が決定したのです。
この誓いは、預言者を守ることに関しては武器の使用をもいとわないことに言及されているため、戦争の誓いとしても知られています。そしてマッカのムスリムたちがヤスリブに移住して間もなく、宗教への攻撃を防ぐためには武器の使用が許されるというクルアーンの啓示が下されました。これらの節は、イスラームの歴史においてとても重要なものです:
“戦いをし向ける者に対し(戦闘を)許される。それは彼らが悪を行うためである。神は、彼ら(信仰者)を力強く援助なされる。(彼らは)只「私たちの主は神です。」と言っただけで正当な理由もなく、その家から追われた者たちである。神がもし、ある人々を他の者により抑制されることがなかったならば、修道院も、キリスト教会も、ユダヤ教堂も、また神の御名が常に唱念されているモスクも、きっと打ち壊されたであろう。”(聖クルアーン 22:39−40)
ここで、預言者ムハンマドとムスリムたち、そして世界にとっての転換期が訪れました。それは預言者ムハンマドの宿命であり、また迫害され、虐げられた人々にとっての新たな選択肢を示す、預言者の任務としての一つでもありました。一方では寛容さが重要視され、他方ではキリスト教徒のように‘正当な戦争’が説かれましたが、その後啓示されたクルアーンでは―“アッラーが人間を、互いに抑制し合うように仕向けられなかったならば、大地はきっと腐敗したことであろう。”(聖クルアーン 2:251)という言葉が使われました。13年間に渡り、彼とその追従者たちは迫害、脅迫、侮辱を受け続けて来ましたが、自己防衛のために手を上げたことはありませんでした。それが可能であることを彼らは態度で示したのです。しかし状況は変わりつつあり、イスラームの教えが世界で生き残るためには全く違う反応が要求されたのです。平和の期間があるように、戦争の期間もあるのです。そしてムスリム一人一人は、物理的な力が備わっていなければ精神的な努力が求められていることを決して忘れないのです。この事実を無視しようと試みる者たちは、遅かれ早かれ隷属させられるでしょう。
預言者殺害の計画
ムスリムたちは小さな集団を作ってマッカを脱出し、ヤスリブへと出発しました。こうしてヒジュラ(移住)が始まったのです。
それはクライシュ族にとって、到底容認の出来ることではありませんでした。同じ都市の中に敵がいるだけでも十分な問題なのに、彼らはマッカの北の地に拠点を作ろうとしているのです。伯父アブー・ターリブの死によって、ムハンマドは重要な支持者を失いました。それにより、先祖伝来の掟と血の復讐を恐れる必要のなくなったマッカの指導者たちは、遂にムハンマド(彼に神の慈悲と祝福あれ)の殺害を決心したのです。アブー・ジャハルはある計画を企てました。それは、複数の部族から若者たちを集め、それぞれがムハンマドに致命的な一撃を与えることによって血の責任が分散されるようにするというものです。彼は、ハーシム家がそれら全ての部族から賠償を請求することは出来ないと見たのです。
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