内なる平和を求めて(3/4):人生における忍耐と目的
説明: この波瀾万丈な世界では、人生そのものを究極の目的としないこと、そして忍耐することこそが、私たちのコントロールの範疇内の障壁にあたるものに対しての有効な解決策となります。
- より ビラール・フィリップス博士(アブー・ウスマーン氏録音の講義から転写)
- 掲載日時 01 Feb 2010
- 編集日時 06 Feb 2010
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それではモーゼとヒドルの物語に戻りましょう。彼らが川を渡ると一人の男児がおり、ヒドルは意図的に彼を殺してしまいました。モーゼはどうしてそのようなこと出来るのか、とヒドルを問いただしました。男児は何もしていないのに、ヒドルは突然彼を殺したのです。ヒドルによると、その子には敬虔な両親がいて、もしその子が育てば両親にとって手の負えない存在となり、彼らは不信仰に陥ってしまう(ことを神はご存知である)ため、神は男児の死を命じたのだとモーゼに説明しました。
もちろん、両親は男児の死を知ると嘆き悲しみました。しかしながら神は、彼らにとってより良い敬虔な子供を彼らへ授けられました。その子は親孝行のとても良い子でしたが、両親は長男を亡くしたことから常に心に穴が開いたかのようでした。しかし審判の日、彼らは神の御前に立ち、かれにより長男の命が奪われた理由が明らかにされ、彼らはその時全てを理解して神を称賛することになるでしょう。
私たちの人生の性質とはこういったものなのです。私たちの人生には様々な出来事があります。それらの中にはマイナスに映るものや、私たちの人生における内面的平和への障壁となるようなものがあります。なぜなら私たちはそれらが起こった理由を理解しないからです。しかしそれらは脇へと追いやられねばなりません。
それらは神によるものであり、私たちはそういった出来事の背後にある英知に気付かなかったとしても、究極的には善いことがあるのだと信じなければなりません。それから初めて、コントロール出来る事柄に取りかかることが出来ます。まずそれらを特定し、次なる大きなステップとしてそれらの障壁を除去するためへの解決案を構築していくのです。そのためには自分を変えていくことが大きなポイントです。なぜなら神はこのように仰られているからです:
“本当に神は、人が自ら変えない限り、決して人々(の運命)を変えられない。”(クルアーン 13:11)
これは私たちがコントロール出来る範疇のものです。私たちは忍耐でさえ養うことが出来ますが、一般的にそれは生まれつきのものであると信じ込まれています。
ある男が預言者(彼に神の称賛あれ)のもとを訪れ、彼が天国に行くためには何が必要かを尋ねたところ、預言者は彼に言いました:“怒らないことだ。”(サヒーフ・アル=ブハーリー)
その男性は怒りやすい性格の人物であったため、預言者は彼にそういった性質を改めなければならないと告げたのです。ゆえに自分の性格や性質を変えるということは可能なのです。
また預言者は言われました:“誰であれ、(忍耐深くあろうと望み)忍耐深い振る舞いをすれば、神は彼に忍耐をお授けになるだろう。”
これはサヒーフ・アル=ブハーリーに収録されています。これは、生まれつき忍耐深くはない人も、忍耐深くなることが出来ることを意味しています。
興味深いことに、西洋精神医学と心理学は、私たちに鬱憤を溜め込まずに発散させることを勧めます。なぜならもし悪感情を溜め込めばいずれは爆発してしまうからで、そうなるよりは発散させてしまったほうが良いと言うのです。
後に、彼らは人々が全てを発散させていると、余りにも強い怒りによって脳の小さな血管が破裂していることを発見しました。彼らは全てを発散させることが実際には危険で、有害な可能性もあることを突き止めたのです。それにより、今では全ての発散は控えた方が良いと彼らは主張するのです。
預言者は私たちに忍耐深くあるよう告げられたため、たとえ内面では怒り心頭であっても、外面では忍耐深い人物であるように振る舞うべきなのです。しかしそれは人々を欺くためではなく、忍耐を形成するための一環としてなされるべきです。私たちが一貫してそうすれば、忍耐に対する外的観念は内的なものとなり、上記のハディースにあるように、結果的に忍耐が達成されることになります。そしてそれは、達成可能なことなのです。
その方法の一つとして、忍耐とその達成に対し、人生の中の物質的要素がいかに大きな影響を及ぼしているかを認識することが挙げられます。
預言者はそれらの要素をどのように対処するべきであるかという件に関し、次のような助言をされました:
“自分よりも上の者、あるいは裕福な者たちばかりを見てはならない。その代わり自分よりも下の者、あるいは不幸な者たちを見るのだ。”
なぜなら私たちの状況がどうであろうと、私たちよりも恵まれない人々というのは必ず存在するものであるからです。これは物質主義的人生における一般的な戦略であるべきです。昨今では物質主義が人生の重きを占めており、私たちはまるでそれに取り憑かれているかのようです。あたかも最優先されるべきものは、いかに多くのものを得ることが出来るかということであるかのようで、私たちの大半はそのことにエネルギーを使います。しかしもしやむを得ない場合は、自分の内面的平和に影響を与えない範囲でそのようにするべきでしょう。
物質主義の社会で生活するにあたり、私たちが自分たちよりも成功を収めている人々に焦点を当て続ける限り、自分の持っているものに満足することは決してありません。預言者はこう言われています:
“アダムの子孫(人類)に金塊で埋め尽くされた谷間を与えたとしても、やがて更に多くのものを求めるだろう。”(サヒーフ・ムスリム)
「垣根の向こうの芝生はより青い」ということわざがあります。多くを持つ人はより多くを求めるのです。そのように追い求めているだけでは、物質主義的世界において決して満足感を得ることはないでしょう。むしろ、私たちは恵まれない人々に注意を向け、それがどんなに小さなものに見えたとしても、神によって自分に授けられている祝福と慈悲を思い出すべきなのです。
物質主義的社会の中の私たちの生活において、適切な観点を定めることの一助となる言葉を、預言者ムハンマドは残しています:
“神は、現世を目的とする者の諸事を混乱させ、その眼前に貧困をもたらすであろう。そして彼は、神が彼のために既に定められたもの以外には、何も得はしないであろう。”(イブン・マージャ、イブン・ヒッバーン)
ゆえに、もし現世が最大の目標とされたのであれば、彼の行動は実を結ばないものとなり、頭を切断された鶏のようにあちこちを狂ったように駆け回ることになるのです。神は彼の眼前に貧困をもたらすため、その者がいかにお金を所有していようが、常に自らを貧しいと感じるのです。そして誰かが彼に優しかったり、微笑みかけたりするだけで、彼は人々の下心を疑うようになり、誰一人信じることも出来ず、幸せでなくなるのです。
株価の市場が暴落すると、投資家が自殺を試みる報道を目にします。ある人が8億円を持っていたとして、暴落の結果5億円の損失を出し、3億円が残ったとしても、彼にとってその5億円の損はこの世の終わりのようなものなのです。神が彼の眼前に貧困をもたらしたため、彼はその後生きる意義を見出さなくなります。
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