ユースフ・アル=ハッターブ 米国出身の元ユダヤ教徒

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説明: 米国の厳格な正統派ユダヤ教徒たちが住む環境で生まれ育ったユースフは、イスラエルに引っ越してイスラームを発見します。

  • より ユースフ・アル=ハッターブ
  • 掲載日時 24 Feb 2014
  • 編集日時 25 Feb 2014
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私は世俗的なユダヤ教徒の家庭で生まれ、18歳のときに神への信仰について深く考察することを決意しました。他の大半の人々同様に、私は自分により近い観点から宗教を調べ始めました。私の家族はユダヤ教徒で、ユダヤ教学校にも行かされていたため、私は正統派とされるラビ・ユダヤ教について調べ始めました。

1988年、私はイェシーバー(タルムード学校)に入り、伝統的ラビ・ユダヤ教の人種差別主義カルトでの旅を開始しました。1991年、私は最初の妻ルナ・メルール(現在はカマル・アル=ハッターブ)と結婚しました。

彼女はモロッコのテトゥアンという街の出身で、バイス・ヤコヴという伝統的ユダヤ教女子学校に通っていました。

1992年には、私たちの長男アブドッラフマーン(旧名ラハミム・コーエン)が生まれました。

アルハムドゥリッラー、彼は当時も今も私の誇りであり、喜びです。アブドッラフマーンの誕生時、私たちはブルックリン・ウィリアムズバーグのサトマール・ハシディック・コミュニティに住んでいました。そこではありとあらゆる嘘や欺きが横行しており、シナゴーグやイェシーバー銀行の口座を通した資金洗浄、そして現地の人々の酷い衛生状態などを目にしてきたため、私の生まれたばかりの息子はこのような人々の周辺で育ってほしくはないと決意しました。

その年の後半、私たちは視野を広め、ブルックリンのオーシャン・パークウェイ地域に引っ越しました。

アルハムドゥリッラー、1994年から1998年にかけて、私たちはさらにハースィバ、アブドルアズィーズ(旧名エズラ)、アブドッラー(旧名オヴァディア)という3人の素晴らしい子供たちに恵まれました。それらの年に私はユダヤ教こそが正しい道なのであるという確信を得ようと苦心しましたが、タルムードの全巻と、「隠された階層」を含む、その3つの異なる解釈法を読んだことがなかったため、全く理解をすることが出来ませんでした。これこそが、ラビ教カルトのトリックなのです。ラビ教の教典を学び終えることは絶対に不可能であるため、ユダヤ教の解釈を伝えるラビたち(シオンの長老たち)に盲従しなくてはなりません。この時期、ラビたちは私たちが彼らの信条に疑念を持ったことに気付き、私たちの新しい友人や雇用者たち等に連絡を取ったりして、私たち家族を付け回しました。ラビたちは常に、あなたがどこへ行くか、誰と友人なのかを知らねばならないのです。私たちはラビ・ユダヤ教徒でしたが、ラビたちは非常に厄介な存在になってきていたため、より良い未来のため、私たちは荷物をまとめてパレスチナに移住しました。(大半の欧米人同様、当時の私たちはそこがユダヤに約束された地「イスラエル」であると言及するよう洗脳されていました。)

1998年の9月、私たちはガザ(またはユダヤ人不法入植者らが言及する名であるガッシュ・カティフ)に到着しました。私の妻は人々の嘘にすぐに幻滅し、息子のアブドッラフマーンはある日学校から帰宅するやいなや、こう言ったのです。「お父さん!僕の先生は髪の毛をきちんと覆っていないし、スカートの丈は短か過ぎるし、トーラーの授業なんかなくて、一日中遊んでいるだけだよ!」

マーシャーアッラー、息子の言っていることは正しかったので、私たちにはお金も財産もありませんでしたが、近郊のユダヤ人入植地域ネティボット(1948年に占領されたパレスチナの土地)に引っ越しました。「宗教的政党」のシャスが、すぐに私たちに家の提供と私立校の紹介をしてくれたため、子供たちはヘブライ語を全く解しない状態から、クラスでトップの成績を収めるまでになりました。ネティボットでの滞在中、私たちはUAE出身のムスリムに出会い、彼とはそれから2年間に渡って会話のなかでユダヤ教のアキーダ(信条)についての質問や、それをイスラーム一神論の一部であるタウヒード・ウルーヒーヤと比較したりしました。私は、それから有名なラビたちの元へ行き、ユダヤ教の信条について質問したものでしたが、いつも返ってくるのは異なる答えでした。ユダヤ教徒たちは、彼らの神がどこにいるのかについてすら、教典に典拠した答えをすることが出来ないのです。彼らはただ、神はあらゆる場所に遍在する(アウーズビッラー)と言います。ある日、私はアラブ人地域のスークに行って、クルアーンの英語訳を購入することにしました。スブハーナッラー! 私はそれをひとたび手に取ると、再び置くことが出来ませんでした。私がユダヤ人やユダヤ教徒たちに対して抱いていた問題が至高なるアッラーによって語られており、クルアーンの最初の3章では、ユダヤ教に対する私の疑念が殆どすべて晴らされました。クルアーンはユダヤ人に対し、地獄から救われるためには真理(イスラーム)に立ち返るよう、強く促します。

クルアーンを読み終えると、私はユダヤ人とそれ以上関わりを持ちたくなくなったため、妻にムスリムになることを打ち明けました。アルハムドゥリッラー、2週間後には妻もクルアーンを読み、ムスリマになる決意をしたのです! 彼女の後には子供たちも続きました。その後しばらくして、私たちはパレスチナ自治区・東エルサレムに移住し、6年近くを過ごしました。

2006年の現在、私たちはモロッコに住んでいます。

アルハムドゥリッラー、子供たちはヘブライ語を忘れ、現在の母語はアラビア語になっています。彼らは皆イスラーム学校でアラビア語を学んでおり、私たちはイスラームという祝福を与えてくれたアッラーフ・スブハーナフ・ワ・タアーラー[1] に感謝しています。



Footnotes:

「神にあらゆる讃えあれ」の意。

喜びを表す称賛の言葉で「アッラーの御意なら何であれ」の意。

「私はアッラーのご加護を乞います」の意。

[1] 「称賛されるべき至高なる御方」の意。

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