ムスリムになりたいのだけど、でも・イスラーム改宗についてのよくある誤解(上)
説明: 神はイスラームへの改宗を難しいものではなく、容易なものとされました。
- より アーイシャ・ステイシー
- 掲載日時 23 Mar 2015
- 編集日時 23 Mar 2015
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イスラームにおいて最も根本的な信仰は、「アッラー以外に真の神は存在しない」というものです。唯一無二かつ最初で最後の御方である唯一の神アッラーは、同位者・子女・仲介者などを設けません。神のみに主権と全能性が属します。それは、至極シンプルな概念であり真実です。しかしながら、神への単純な信仰でさえも、ときには圧倒されてしまうことがあります。私たちは神へ祈った直後にその祈りが答えられ、驚かされるようなことがしばしばあります。
イスラームという宗教は、そうした単純な概念を含有します。つまり、神は唯一であり、神への服従が不可分だということです。イスラームという単語は「神の御心への服従」を意味しています。イスラームというアラビア語の単語の語根は、平和・安寧を意味する単語の語根(サ・ラ・マ)を共にします。本質的に、平和と安寧は人生を神の御心に従わせることによってもたらされるものです。人生の輪のように、それは常に同じ場所で始まり、同じ場所で終わります。アッラー以外に神はありません。神の御心に従うと、私たちはムスリムとしての誠実さを「ラー・イラーハ・イッラッラー、ムハンマドッラスールッラー(アッラー以外に真の神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である)」という言葉によって実証します。
神の慈悲を経験し、理解する者に対し、サタンは誰であれ危害を加えようと試みます。サタンは私たちが安らぎや慈悲を感じることを望まず、心配や憂鬱感を抱くことを望んでいます。サタンは私たちが過ちや罪を犯すことを望むのです。サタンは自身が神の慈愛を与えられることを諦めており、それゆえに出来る限り多くの人間が腐敗することを望んでいます。
“悪魔は答えた。「あなたがわたしを惑わされたので、わたしはあなたの正しい道の上で、人々を待ち伏せるであろう。そしてわたしは、かれらを前から、後ろから、右てからも左てからも襲いましょう。」”(クルアーン7:16−17)
真理を認識してムスリムになりたいと願う人に対し、サタンは「でも・・・」という言葉を吹聴します。「私はムスリムになりたいですが、でも・・・」というものを代表的に、「でも、準備ができていません。」「でも、アラビア語が話せません。」「でも、私(の国籍・人種)は〜人です。」「でも、イスラームについてよく理解できていません。」など理由は様々です。神は、サタンの巧妙な手口について警告しています。
“アーダムの子孫よ、あなたがたは悪魔に惑わされてはならない。”(クルアーン7:27)
“本当にシャイターンはあなたがたの敵である。だから敵として扱え。”(クルアーン35:6)
悪魔による囁きかけは、イスラーム改宗を阻もうとする試みに過ぎません。それによる思い込みから、最も慈悲深き御方である神とのつながりを邪魔されるべきではありません。この連載では、最もよくある誤解について考察していきたいと思います。神は最も慈悲深き御方であり、かれはイスラーム改宗を難しいものではなく、容易なものとされました。「でも・・・」と言う必要はないのです。
1.ムスリムになりたいのですが、改名したくありません。
イスラームに改宗する際は、名前まで変える必要はありません。預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)は、あらゆる人には良い意味や性質のある名前をつけてもらう権利があると述べています。大半の人にとってそれは問題ではありませんが、もし自分の名前に悪い意味が込められていたり、罪人・抑圧者との関係がある場合は、より認められやすい名前に変更することが推奨されています。誰かの名前が偶像・他宗教の神々と同じもの、もしくは神以外への奉仕を意味するものなのであれば、それは変更されなければなりません。ただし、イスラームは容易なものであるということを忘れてはなりません。正式な改名が困難だったり、精神的苦痛や他者からの危害を伴うのであれば、家族内や知り合い同士の間で変えるだけで十分です。
2.ムスリムになりたいのですが、アラビア語が全く分かりません。
イスラームはあらゆる時代、あらゆる土地のあらゆる人々に啓示された宗教です。それは、アラブ人やアラビア語話者に独占された宗教などではありません。事実、世界中の14億人のムスリムの大多数はアラブ人ではありません。人はアラビア語の単語を全く知らずともムスリムになることができます。それはイスラームを受け入れる能力を阻害するものではないのです。しかし、クルアーンの言語はアラビア語であり、日課の礼拝もアラビア語によって行われるため、言語全体を学ぶ必要はないものの、改宗後はある程度のアラビア語を知る必要はあります。
礼拝に必要とされるアラビア語を、言語障害により覚えることができなかったり、アラビア語を上手く発音できない場合、可能な限りにおいてそれを試みることが必要です。神は各人の能力以上のものを課されたりはしないため、一部のアラビア語さえ学ぶことができない場合、その義務は免除されます。しかしながら、神はクルアーンの学習を容易なものとされたと述べられているため、人はそれに対して最善を尽くすことが求められています。
“アッラーは誰にも、その能力以上のものを負わせられない。”(クルアーン2:286)
“本当にわれは、クルアーンを易しく説き明した。”(クルアーン54:17)
ある人物が預言者のもとを訪れてこう言っています。「神の使徒よ、私は読むことができないため、私にとって十分となるクルアーンを教えて下さい。」彼はこう答えました。「言いなさい。『スブハーナッラー、ワルハムドゥリッラー、ワラー・イラーハ・イッラッラー、ワッラーフ・アクバル、ワラー・ハウラ・ワラー・クウワタ・イッラー・ビッラー(神はあらゆる不完全性から遠く隔たれた御方。神に讃えあれ。アッラー以外に神はなく、神は偉大なり。神以外による力と強さはなし。)』」1
イスラームの入信は簡単です。それは、複雑な手続きからは無縁な単純な手順によるものです。第2回では割礼について、そしてイスラームの入信には民族的・人種的な規制がないこと、またイスラームについて殆ど知らない人による入信について見ていきます。
ムスリムになりたいのですが、でも・・・イスラーム改宗についてのよくある誤解(中)
説明: イスラーム改宗を阻んでいる、さらなる誤解。
- より アーイシャ・ステイシー
- 掲載日時 30 Mar 2015
- 編集日時 30 Mar 2015
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真の神以外に神はなし。それは容易なイスラームへの改宗を促すシンプルな宣言です。唯一の神と唯一の宗教よりも単純なことはありません。しかし前回で考察したように、人が真理を認識してムスリムになろうとするとき、サタンは「でも」という言葉を囁きかけます。私はムスリムになりたいのですが、でも・・・。「でも私は心の準備ができていません」「でも私はアラビア語が分かりません」「でも私は改名したくありません」今回は、イスラーム改宗を妨げるさらなる誤解について見ていきます。
3.ムスリムになりたいのですが、割礼をしたくありません。
預言者ムハンマドは、すべての子は、神への正しい理解を持ったフィトラの状態で生まれてくるのだと述べています1。預言者ムハンマドにまつわる伝承は、フィトラ(天性の自然な状態)に関する条件には5つがあることを教えます。
「フィトラには5つが含まれる。陰毛を剃ること、割礼、口髭を短く刈り揃えること、脇毛を引き抜くこと、そして爪を切ることである。」2これはあらゆる預言者たちが実践し、彼らがもたらした法によって信仰者たちに対しても実践が促されていた、古代から続く自然な身だしなみであると考えられます3。
イスラーム学者の大多数は、男性にとってそれが危害となる恐れがない限り、割礼が義務であるということに合意しています。その有害性を判断する際には、クルアーンと預言者ムハンマドの真正な教えを参考にしなければなりません。もしも割礼をすることによって負傷の恐れがある場合、または日々の生活が悲惨なものとなる合法的な理由がある場合、その義務は免除されます。その問題がイスラーム入信への妨げとなることは認められません。言い換えると、それはムスリムになるための条件ではないということです。また、それは礼拝を先導することの条件でもありません5。
イスラームでは、女性割礼も義務ではありません。
4.ムスリムになりたいですが、私はアラブ人ではありません。
イスラームは、あらゆる時代・地域・人々に啓示された宗教です。特定の人種や民族へのものではありません。それはクルアーンと預言者ムハンマドにまつわる真正な教えに基づいた、包括的な人生の道標です。
人がムスリムになるために必要とされる人種や民族はありません。預言者ムハンマドは、最後の説教においてその事実を非常に簡潔に繰り返しています。
「全人類はアダムとイブから来たのであり、アラブ人は非アラブ人に優越することはなく、非アラブ人はアラブ人に優越するということもなく、白人は黒人に優越することはなく、黒人は白人に優越することもない。ただし、それは篤信と善行を除いてである。全てのムスリムはお互いに同胞であり、ムスリムたちはひとつの集合体を構成するということを知りなさい。」6
“人びとよ、われは一人の男と一人の女からあなたがたを創り、種族と部族に分けた。これはあなたがたを、互いに知り合うようにさせるためである。”(クルアーン49:13)
5.ムスリムになりたいですが、イスラームについて何も知りません。
ムスリムになるために、あらかじめイスラームのことを沢山知っておく必要はありません。信仰証言の意味、そして6つの信仰箇条を知るだけで十分です。イスラームに改宗後、徐々に宗教について学ぶ時間を設ければ良いのであり、急いだり焦ったりする必要はありません。ゆっくりと自分のペースで余裕を持ちつつ、着実に前進することを心がけるべきです。イスラームの神秘的な美や安寧について理解し、預言者ムハンマドを含む、すべての預言者たちがもたらしたイスラームの教えを学ぶことのできる時間を設けるべきです。ムスリムは決して学びを止めたりはしません。それは死まで続く、人生全体を通したプロセスなのです。
預言者ムハンマドはこう述べています。「信仰者は天国に到達するまで、善きことを聞き続ける(知識を求め続ける)に事欠かないのである。」7
6.ムスリムになりたいですが、これまで罪を犯し続けてきました。
信仰証言(シャハーダ)を口にしたのであれば、その人物はあたかも新生児のような状態となります。つまり、過去の罪はそれがいかに大きなものであれ、すべて洗い流されます。その人物の「行いの帳簿」は罪のない、白く輝く真っさらな状態となり、新たな始まりを歩み始めるです。
“不信心の者に言ってやるがいい。「あなたがたが(信者に対する迫害を)止めるならば、過去のことは赦されよう。」”(クルアーン8:38)
誰一人として、イスラームの真理を受け入れる強制はされません。しかし、唯一なる神の存在を心が感じているのであれば、ためらってはなりません。
“宗教には強制があってはならない。正に正しい道は迷誤から明らかに(分別)されている。それで邪神を退けてアッラーを信仰する者は、決して壊れることのない、堅固な取っ手を握った者である。アッラーは全聴にして全知であられる。”(クルアーン2:256)
ムスリムになりたいのだけど、でも・・・イスラーム改宗についてのよくある誤解(下)
説明: 罪、他者の反応を恐れること、そしてムスリムは他者によるイスラーム改宗を止めるべきではないということへの無知。
- より アーイシャ・ステイシー
- 掲載日時 30 Mar 2015
- 編集日時 30 Mar 2015
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第2部では、イスラームに改宗した人物の過去の罪は、たとえそれらがどんなに重大なものであれ、すべて赦されることについて言及しました。改宗した人物は、まっさらな罪なき状態から新しい人生を歩み始めるのです。ただし、一部の人々は罪の行いを止めることができないことから、イスラームへの改宗を躊躇します。第3部では、この問題について考察していきます。
7.ムスリムになりたいのですが、私はある種の罪の行いを止めることができません。
もし、アッラー以外に神は存在しないことを真に信じるのであれば、たとえ罪を犯し続けるのであっても直ちにイスラームを受け入れるべきです。人は倫理基準に沿った生活に慣れていない時、イスラームが履行不可能な程に決まりごとや規則が多いと感じるはずです。ムスリムはアルコールを飲みませんし、豚肉を食べませんし、ムスリム女性はスカーフを着用しなければなりません、また、ムスリムは一日5回の礼拝をしなくてはなりません。通常、人は「飲酒を止めることなんて無理だ」「毎日一回礼拝するだけでも大変なのに、一日5回なんてハードルが高すぎる」という風に思うものです。
しかし現実としては、人がアッラー以外に崇拝に値する神はないということを受け入れ、アッラーとの関係を築き上げると、決まりごとや規制はとりわけ心配すべきではないことになります。それは、神のご満悦を求めることにおけるゆっくりとした過程です。一部の人にとっては、幸福な人生のためのガイドラインを受け入れることは数日、さらには数時間で事足りるものの、別の人にとっては数週間、数ヶ月、または数年かかることさえあります。イスラームへの旅立ちは、人それぞれです。神はあらゆる罪をお赦しになることを忘れないことが重要です。信仰者であれば、神の慈悲によってどのような罪を犯したとしても天国に入れられることが期待できます。しかし、真の神以外のものを崇拝する不信仰者であれば、永久に地獄に住むことになります。それゆえ、イスラームを全く受け入れないこと、あるいは罪を犯すムスリムであることの2つの選択肢を見れば、後者の方が明らかに賢明な選択なのです。
8.ムスリムになりたいのですが、他人にその事実を明かすことができません。
ここまで強調されてきたように、何が理由であれ、それがイスラームを受け入れることの妨げとなるべきではありません。もしも肉親や友人といった他者の反応を恐れており、まだ事実を告げるべきではないと感じるのであれば、改宗したことを隠しつつ可能な範囲内での実践を試みるべきです。時間が経ち神との関係が十分に築かれれば、信仰は強化され、自分を取り巻く状況に対してより良く処理する術を知るようになります。実際、新改宗者は解放感を得て、全世界に対してイスラームの美点を知ってもらおうと感じ始めることが多いのです。
当面の間は、ゆっくりかつ着実に肉親や友人たちに対し、来たる変化について慣れてもらうべきです。まずは一般的に神や宗教について、次に諸宗教、それからイスラームに特定した会話をすべきかも知れません。人が人生の規範であるイスラームを実践し始めると、近親者は変化を感じ取るようになります。改宗者からは新たな側面を見出すようになり、心配や不満が安心感・満足感へと変わっていくのを感じ取るものです。
イスラームは人生の指針であるため、それを長期に渡って隠し通すことは困難です。人がイスラームに改宗すると、様々な反応があることを知るのは重要です。それに対して喜んで受け入れてくれる人々もいれば、怒りをあらわにしたり、残念がったりする人々もいます。後者の方であっても、時間と共に態度を変え、その事実を受け入れてくれる場合も多く見られます。改宗者に好ましい変化が多く見られるのであれば、改宗は人から評価されるようになるでしょう。新改宗者は強い決意を胸に、神が自分と共にあることを知る必要があります。改宗者の言葉や経験によって、他者がその例に倣うことも十分にあり得るのです。神を信頼し、新たな信仰についてできる限りのことを学び、自らの目を通してイスラームの光を輝かせるのです。
9.ムスリムになりたいのですが、ムスリムの知人が一人もいません。
ある人たちは読書によってイスラームを学び、またある人たちは街で見かけるムスリムたちの振る舞いをきっかけにイスラームを知り、またある人たちはテレビ番組でイスラームについて知り、またある人たちは「アザーン(礼拝の呼びかけ)」を通してイスラームに興味を持ちます。人々はたびたび、ムスリムと出会うことなくしてイスラームの美点を知るのです。イスラームに改宗するにあたり、ムスリムの知人を持つことは必要条件ではありません。
イスラームへの改宗は、「私はアッラー以外に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である」と宣言するだけの至極簡単なものです。モスクやイスラミックセンターでの改宗式や、証人は必要とされません。それはイスラームにおける同胞愛と新たな信仰の始まりの表明であり、そして他者による倫理的・精神的なサポートの手続きに過ぎません。近所にイスラミックセンターや、手助けをしてくれるムスリムがいない場合、「イスラームに改宗し、ムスリムになる方法とは」という記事を参考にすることができます。
改宗後、新ムスリムが他のムスリムとコンタクトをとることは大いに助けとなります。地元のモスク・イスラミックセンターや、近所に住むムスリムと知り合いになること、あるいは同じバスで見かけたり、同じ会社の同僚だったりするムスリムと進んで会話を持つことは重要です。しかし、たとえ新ムスリムが完全に孤立していようとも、15億人のムスリムたちと繋がっていることに変わりはないのです。
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