非凡なる神の慈悲(2/3):その温かき抱擁
- より IslamReligion.com
- 掲載日時 06 Dec 2009
- 編集日時 21 Oct 2010
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神の慈悲とは、全ての存在をまるごと包み込みだけではありません。それは永続するのです。人類の懇切な主は、人々に慈悲深さを示し、哀れみを持たれます。神の御名の一つであるアッ=ラフマーンとは、かれの慈愛深さこそが、かれの存在における定義であることを示唆しています。かれの哀れみ深さは際限なく、まるでどこまでも続く宇宙のように広大です。中世のイスラーム学者アッ=ラーズィーはこう記しています:‘創造物が自分自身に対し、創造主よりも慈悲深いことなどあり得ないのだ!’実にイスラームでは、創造主が創造物自身の母親よりも情け深いという事実が説かれているのです。
神はその壮大なる慈悲において、空から雨を降らせて果樹園から果物を実らせ、人間の体を養います。肉体が栄養を必要とすること同様に、魂も大きな精神的糧を必要とします。そして神はその慈悲ゆえに諸預言者・諸使徒を遣わし、人類に対する教えとして啓示を下し、人間的精神性の維持を促したのです。神の慈悲は、モーゼのトーラーにおいてこう示されています:
“…その上には、主を畏れる者への導きと慈悲が記されていた。”(クルアーン 7:154)
そしてクルアーンの啓示もまた同じことを示しています:
“…それは、あなた方への主からの啓蒙であり、また信仰する者への導きであり、慈悲である。”(クルアーン 7:203)
慈悲とは、ある種の血統や一部の人々だけに授けられるものではありません。神の慈悲とは、神の言葉に従うこと、そしてその朗誦に耳を傾けることによって授けられるのです:
“だがこれ(クルアーン)は、われが下した祝福された啓典である。だからこれに従って、あなた方の義務を尽くしなさい。恐らくあなたは、慈悲に浴するであろう。”(クルアーン 6:155)
“それでクルアーンが読誦される時は、それを謹しんで聴き、また静粛にしなさい。恐らくあなた方は慈悲を授かるであろう。”(クルアーン 7:204)
また慈悲とは、従順による結果でもあります。
“(信仰者よ、)それで礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、使徒に従え。そうすればあなた方は、慈悲にあずかるであろう。”(クルアーン 24:56)
また神の慈悲は、私たちの希望でもあります。従って信仰者は、神の慈悲を懇願するのです:
“本当に災厄が私に降りかかりました。だがあなたは、慈悲深い上にも慈悲深いお方であられます。”(クルアーン 21:83)
また信仰者たちは、信仰ある者たちのために神の慈悲を乞います:
“…主よ、私たちを導かれた後、私たちの心をそらさないで下さい。あなたの御許から、私たちに御慈悲を与えて下さい。本当にあなたこそ、限りなく与えられる御方であられます。”(クルアーン 3:8)
そしてまた彼らは、両親のために神の慈悲を乞います:
“…主よ、幼少の頃に私を愛育してくれたように、二人の上に御慈悲を御授け下さい。”(クルアーン 17:24)
神の慈悲に浴する者
神による慈悲は信仰者や不信仰者、また従順な者や反抗する者を問うことなくその両手の中に包み込むものですが、来世における慈悲に関しては、信仰者のためだけに留保されています。アッ=ラフマーンの慈悲深さは世界の全ての生物に影響を及ぼしますが、その同じかれの慈悲により、来世は信仰者のためだけに控えられているのです。アッ=ラヒームは審判の日、信仰者に対してその慈悲を与えます:
“…われは、自分が欲する者に懲罰を加える。またわれの慈悲は、全てのものにあまねく及ぶ。それ故われは、主を畏れ、喜捨をなし、またわが印を信じる者にそれを授けるであろう。彼らは文字を知らない預言者、使徒に追従する者たちである。彼は彼らのもっている(啓典)律法と福音の中に、記され見い出される者である…。”(クルアーン7:156−157)
神の慈悲に浴する者に関し、イスラームの預言者はこう述べています:
“神は慈悲を100の部分に分けて創られ、その内の一部をかれの創造物同士が慈悲深くあるよう、彼らの間に添えられた。そして神は残りの99の部分を、かれのしもべたちへの恩寵として、審判の日まで差し控えられているのだ。”(サヒーフ・ブハーリー、サヒーフ・ムスリム、アッ=ティルミズィー他)
神の慈悲の内、そのたった一部のものによって天と地は満たされ、人間同士は愛し合い、獣や鳥は水を飲むのです。
また審判の日に神によってもたらされる慈悲は、私たちがこの現世で目にすることの出来るいかなるものよりも広大なのです。それは神による懲罰が、私たちによってこの現世で経験されるいかなるものよりも苛酷であることと同じなのです。イスラームの預言者は、神によるこれらの特質の両極に言及しています:
“もしも神が差し控えている懲罰を信仰者が知るのなら、彼らは決して火獄からは安全ではないと絶望するだろう。そしてもしも神の潤沢な慈悲を不信仰者が知るのなら、彼らは楽園に入ろうとする努力もしないであろう。”(サヒーフ・ブハーリー、サヒーフ・ムスリム、アッ=ティルミズィー)
しかしながらイスラームの教えでは、神の慈悲は神の憤りを上回るとされています:
“実に、われの慈悲はわれの懲罰を上回るのである。”(サヒーフ・ブハーリー、サヒーフ・ムスリム)
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