羞恥心
説明: イスラームにおける、羞恥心の役割とは。
- より アーイシャ・ステイシー
- 掲載日時 25 Aug 2014
- 編集日時 25 Aug 2014
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神はご自身を崇拝させるために人類を創造しました。実践的なムスリムは、毎日毎時間、あらゆる瞬間において、本質的に神を崇拝することが出来ます。イスラームとは人生の道であり、唯一なる神への服従に他なりません。
“ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。”(クルアーン51:56)
イスラームにおける神の概念は、神を慈悲あまねく慈愛深き御方として説明し、神が人類に定めたものは、人類にとって最善のものであるとされます。神の御意への服従は清浄と平穏、そして最終的には天国への道につながるのです。
クルアーンが崇拝について説明する際、最も頻繁に使用する言葉は「イバーダ」です。イバーダとは羞恥心・謙虚さを意味する「ウブーディーヤ」の語根であり、他のアラビア語の単語同様、様々な意味合いを含有します。イバーダは羞恥心に関わる他の意味も持っています。それは全能なる神の御意に完全に服従する者が感じ取る、この上ない謙遜の意識です。崇拝とは神への服従であり、服従の根本的部分とは羞恥心なのです。
“だから、あなたの主を讃えて唱念し、サジダ(跪礼)する者の一人となりなさい。”(クルアーン15:98)
アラビア語で傲慢を意味する「キブル」が私たちを地獄へと導くのとは反対に、羞恥心は私たちを天国へと導きます。サタンが天国から追放されたのはかれの傲慢さによるものであり、かれは神に命令された人類の父アダムへの跪礼を拒否したため、かれは自身とその追従者たちを地獄へと道連れにすることを誓ったのです。サタンによる神への服従と羞恥心の欠如は、最も神に従順な被造物が地獄の底へと転落することにつながったのです1。
“それで天使たちは、イブリース(サタン)を除き一斉にサジダした。かれは一緒にサジダすることを拒否した。かれは仰せられた。「イブリースよ、あなたが一緒にサジダしなかったのは何故か。」かれは申し上げた。「わたしにはあなたが泥で形作り、陶土から御創りになった人間にサジダするようなことは、出来ません。」”(クルアーン15:30−33)
傲慢に振舞う者、または他人を自分の所有物であるかのような行動を取る者に、真の服従をすることは出来ません。あらゆる力と強さは神のみから来るものです。神の御前において人類は皆平等であり、国家・部族・家族間の相違とは、お互いを知り合うためのものであり、誇らしく感じるためのものではありません。
“人びとよ、われは一人の男と一人の女からあなたがたを創り、種族と部族に分けた。これはあなたがたを、互いに知り合うようにさせるためである。アッラーの御許で最も貴い者は、あなたがたの中最も主を畏れる者である。本当にアッラーは、全知にして凡ゆることに通暁なされる。”(クルアーン49:13)
羞恥心とは敬虔さである
イバーダ、つまり崇拝の主柱とは礼拝です。合同礼拝は列をなして行われ、人々は神の御前に平等な存在として立ちます2。富豪や権力者のための特別区域などはなく、貧者や困窮者が後方に押しやられる訳でもありません。各々は羞恥心をもって頭を低くし、左右の同胞が神の御前においては等しく重要な存在であることを知るのです。男女に関わりなく、人を他者よりも優位とする要素はただ一つであり、それは敬虔さです。真の敬虔さ、もしくは誠実さとは、羞恥心を練磨することなくして達成されることはありません。
“他人に対して(高慢に)あなたの頬を背けてはならない。また横柄に地上を歩いてはならない。本当にアッラーは、自惚れの強い威張り屋を御好みになられない。”(クルアーン31:18)
羞恥心は神を知り、神の偉大さを認知し、神を敬い、神を愛し、神に畏敬の念を抱くことからもたらされます。また自分自身、そして自分自身の罪と弱さを知ることからも同様です。神は、敬虔さと誠実さに基づいた行いを通して神に近づこうと努力する者たちにそうした性質をお与えになります3。預言者ムハンマドに近かった教友の一人は、彼がこう言うのを聞いています。
“喜捨によって富が減少することはなく、神はそのしもべが他者を赦すと彼の名誉を高められるのだ。そして神の御前において謙虚な者は、必ず神によって(その地位を)引き上げられるのだ。”(サヒーフ・ムスリム)
羞恥心は、神が人間に授ける祝福の中でも最も偉大なものの一つです。それによって真の服従は達成されるのです。預言者ムハンマドは神に対して真の服従をしました。羞恥心に溢れた彼の性格は、神への真摯な信頼に基づいていました。彼は親切心・謙虚さの模範を示しました。事実、預言者ムハンマドによって示された性格は、誇りや傲慢さとは対極にあるものでした。彼の歩き方、話し方、食べ方なども含め、彼の人生のあらゆる側面は内面の謙虚さを反映させていたのです。
預言者は他者に対して自分が優れているような態度を取ったり、労働を拒否したりはしませんでした。彼の教友の一人は、預言者ムハンマドが召使いや労働者たちと一緒に進んで仕事をしたと報告しています。別の教友は、預言者が家で片付けをし、ラクダを繋ぎ、家畜に餌を与え、召使いたちと一緒に食事し、彼らがパン生地をこねたり、市場から食糧を抱えてきたりする手伝いをしたと報告しています。また彼は病人を見舞い、葬儀に出席し、ロバに乗り、弱者のために歩行速度を落とし、貧者からの招待を受けていたと報告されています。
預言者ムハンマドの教友たち、そして初期世代のムスリムたちは羞恥心の概念を理解していました。彼らは神、そして同胞たちへの愛情と、来世での懲罰を怖れ、神、そして人々の前で謙虚に振る舞っていたのです。
ウマル・ブン・アル=ハッターブによるカリフ統治の時代、ダマスカスにおいて軍隊の進軍が行われました。彼の横にはアブー・ウバイダがいました。彼らは小さな湖に突き当たりました。ウマルはラクダから降り、靴を脱いでそれらの紐を締め、自分の肩にかけました。彼はそれから手綱をラクダから外し、一緒に水の中に入りました。軍隊の目前で行われていたこれら一連の作業を見たアブー・ウバイダは言いました。「信仰者の長よ! どうしてあなたは、ご自分が従える人々の前でそのように謙虚でいられるのですか?」ウマルは答えました。「アブー・ウバイダよ、何ということか! 他でもないあなたがそのような考え方をするとは! そうした考え方は、ムスリムたちの凋落の原因となるのだぞ。実に我々は、とても卑しい人間であったということが分からないのか? 神は我々をイスラームを通して、名誉と偉大さの地位に引き上げられたのだ。もし我々がそのことを忘れ、我々を引き上げたイスラーム以外のものを望むのなら、我々を引き上げた御方ご自身がきっと我々を貶めるであろう。」
真に謙虚な者は、真に祝福された者なのです。そうした人物は他者からの優位性を感じたとき、最も偉大かつ全能者である神を思い起こし、真の服従を通して謙虚になるのです。
“慈悲深き御方のしもべたちは、謙虚に地上を歩く者、また無知の徒(多神教徒)が話しかけても、「平安あれ。」と(挨拶して)言う者である。”(クルアーン25:63)
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