イスラーム第一の柱:信仰証言

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説明: イスラーム第一の柱の紹介:ムスリムの信仰証言、つまり「神以外に崇拝に値する者はなく、ムハンマドは神の使徒である」というシャハーダを証言すること。そしてそこに潜む様々な意味の検証。

  • より IslamReligion.com
  • 掲載日時 06 Dec 2009
  • 編集日時 21 Oct 2010
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イスラームを実践する全てのムスリムは‘信仰六箇条’を信じ、いわゆる‘五柱’を実践する義務があります。それらは以下の通りです:

1.信仰証言、またはシャハーダ

2.礼拝、またはサラー

3.義務の喜捨、またはザカー

4.斎戒(断食)、またはサウム

5.巡礼、またはハッジ

▶第一の柱

信仰証言

シャハーダとはすなわちイスラーム信仰証言であり、‘五柱’の最初に来るものです。シャハーダとはアラビア語で‘証言’を意味し、その中では次の二事項を証言します:

a.神(アッラー)以外には何ものも崇拝には値しないこと。

b.ムハンマドが神(アッラー)の使徒であること。

ムスリムとは分かりやすく言えば、“神以外には崇拝に値するものはなく、ムハンマドは神の使徒である”と証言する人のことです。誰でもこの単純な宣言をすることにより、ムスリムとなります。

シャハーダはその意味に対する完全な理解と心からの同意を伴った状態で、ムスリムの人生において最低1回は口にされなければなりません。ムスリムは朝起床する際にも、そして就寝前にもこれを唱えます。また全てのモスクでは、一日五回の礼拝の呼びかけの際にこの言葉が繰り返されます。そして人生において最後に発する言葉がこのシャハーダであれば、その人は天国を約束されます。

イスラームに無知な多くの人々は、神を意味する「アッラー」という概念に関して誤解しています。旧約聖書のアラム語で神が“エル”とか“エロヒム”とか呼ばれるのと同様、「アッラー」とはアラビア語で神を正確に意味する名なのです。また、ユダヤ教ではその名が“ヤハウェ(YHWH)”であるのと同様、イスラームではアッラーという名で知られているのです。しかし“ヤハウェ”が字義的に“あられるお方”という意味であるのに対し、アラビア語のアッラーは“全ての崇拝に値する唯一、真実の神”という意味を持っています。ちなみにアラビア語を話すユダヤ教徒やキリスト教徒も、神のことをアッラーと呼んでいるのです。

a.神(アッラー)以外には何ものも崇拝には値しないこと。

信仰証言の前半では、神のみが心と体によって単独的に崇拝される権利があることを述べています。イスラームの教義では神以外の何ものかが崇拝されることが許されないばかりでなく、神と並べて何ものかを崇拝することも許されません。神には崇拝される仲間や協力者がいないのです。崇拝はその包括的意味とその全側面において、神のみに捧げられるべきなのです。神が崇拝される権利とは、イスラームの信仰証言であるラー・イラーハ・イッラッラーの本質的意味でもあります。人は、神が崇拝される権利を証言することによってムスリムになるのです。これはイスラームにおける神の信仰、そしてイスラーム全体の要点です。またこれはアブラハム、イサク、イスマエル、モーゼ、ヘブライの諸預言者、そしてイエス、ムハンマド(彼らに神の祝福あれ)に代表される全預言者・使徒の主要な教えだったと見なされています。例えばモーゼはこのように宣言しています:

“聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。”(申命記 6:4)

そしてイエスはこの1500年後、同じメッセージを繰り返しました:

“第一のいましめはこれである、「イスラエルよ、聞け。主なる私たちの神は、ただ一人の主である。」”(マルコによる福音書 12:29)

またイエスは、悪魔に対してこう言っています:

“サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてあるのだから。”(マタイによる福音書 4:10)

そしてイエスの約600年後、ムハンマドの呼びかけはマッカ(メッカ)の丘々にこう響き渡りました:

“あなた方の神は唯一の神(アッラー)である。かれの他に神はなく、慈悲あまねく慈愛深き方である。”(クルアーン2:163)

そして彼らは皆、明確にこう宣言しています:

“アッラーに仕えなさい。あなた方にはかれの他に神はないのである。”(クルアーン7:59、65、73、85;11:50、61、84;23:23)

しかしこの証言を単に口先で言明するだけでは、完全なムスリムとは見なされません。完全なムスリムであるためには神が定められたように、預言者ムハンマドによって説かれた手法を実践しなければならないのです。これは信仰証言の後半が明確にしています。

b.ムハンマドが神(アッラー)の使徒であること。

ムハンマドはアラビア半島のマッカにて、西暦570年に生誕しました。彼の家系は預言者アブラハムの息子であるイスマエルにまで遡ります。信仰証言の後半では、彼が預言者であるだけでなく、彼以前のモーゼやイエスと同様、より重要な役割をもつ神の使徒であることも主張しています。彼以前の全預言者がそうであったように彼は人間でしたが、特定の部族や国家だけにではなく、全人類にその教えを伝えるために神によって選ばれたのです。ムスリムにとっては、彼こそが最後の啓示をもたらした預言者です。ムスリムはムハンマドを“最後の預言者”として認めることによって、彼の預言がアダムに始まる全ての啓示された教えを確証し、完結させると信じています。それに加え、ムハンマドはその模範的な人生によって良い見本ともされなければなりません。ムハンマドに見習おうとする信仰者の努力は、イスラームが強調する実行・実践の精神を反映しているのです。

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イスラーム第二の柱:礼拝

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説明: イスラーム第二の柱の紹介;礼拝、その精神的重要性、アザーン(礼拝の呼びかけ)、そして金曜日の合同礼拝(ジュムア)について。

  • より IslamiReligion.com
  • 掲載日時 14 Dec 2009
  • 編集日時 14 Dec 2009
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イスラームの五柱の一つとして、ムスリム(イスラーム教徒)に課せられた日々の礼拝のことをサラーといいます。全てのムスリムは、一日五回の義務の礼拝を行なうことになっています。サラーとは正確な意味での崇拝行為であり、その時々のインスピレーションによる祈りとは異なります。ムスリムは一日五回、以下に示す時間帯に礼拝、つまり厳密な意味での崇拝行為を行います:

·黄昏の光が差してから日の出前まで

·正午過ぎ

·午後から日没前まで

·日没後から黄昏の光がなくなるまで

·完全に暗くなってから夜半前まで

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クリーブランド・ホプキンス国際空港の料金支払所前で礼拝するムスリム男性。(AP Photo/The Plain Dealer, Gus Chan)

各礼拝には最低5分程かかりますが、それらは行なう人次第で引き延ばすことも出来ます。ムスリムは個人や集団、家庭やモスク、職場や道端などを問わず、清潔な環境でさえあればどこでも礼拝することが出来ます。また病気、旅路、戦争などの特別な状況下では、礼拝の短縮や纏めなどが認められています。

毎日特定の時間帯に神へ近づくことは、ムスリムに自らの信仰の重要性と、また人生のあらゆる側面において礼拝が果たすその役割を常に想起させてくれます。ムスリムはその一日を、自らを清め、礼拝で神の御前に立つことによって開始します。礼拝はアラビア語でのクルアーン朗誦、そして立礼、屈伸礼、平伏礼、座礼などの連続的動作によって構成されています。全ての朗誦と動作は神への服従、謙遜、そして敬意を表します。ムスリムが礼拝の中で行うことになっている様々な姿勢や言葉は服従の精神を体現し、神への献身を連想させます。また礼拝によって審判の日への信仰のことや、いずれ自分が神の御前に召喚され、現世における所業を全て清算されるという事実を思い起こさせるのです。ムスリムはこのようにして一日を始めます。こうしてムスリムは一日の内の数分間、世俗的活動から一時的に立ち退いて神に直面し、人生の真の目的を忘れないようにするのです。

これらの礼拝は一日を通して、仕事のストレスや家庭や人生の悩みなどから自分を切り離し、絶えず神への意識を想起することを促進します。礼拝によって信仰心と神への帰依心は強化され、日常生活を死後の世界と最後の審判という観点の中に収めるのです。礼拝の開始に際し、ムスリムはカアバ神殿(アブラハムとイスマエルによって築かれた古代から続く崇拝の場)を擁する聖都マッカの方角を向きます。そして礼拝の終わりにはシャハーダ(信仰証言)が朗誦され、右と左に“あなた方に神の平安と祝福がありますように”という平安の挨拶がなされます。

個人で行うサラー(礼拝)は許されてはいますが、モスクでの集団礼拝には特別な利益があり、ムスリムはそれぞれのサラーを他者と一緒に行うことが推奨されています。崇拝者たちは一斉にマッカのカアバ神殿へと顔を向け、クルアーンを朗誦し、礼拝動作を先導するイマーム(先導者)の後ろで平行に並びます。多くのイスラーム地域では“礼拝の呼びかけ”、すなわち“アザーン”が街の中に響き渡ります。そしてムアッズィン(アザーンをする者)は拡声器でこう呼びかけるのです:

アッラーフ アクバル(神は至大なり)

アッラーフ アクバル(神は至大なり)

アッラーフ アクバル(神は至大なり)

アッラーフ アクバル(神は至大なり)

アシュハドゥ アッラー イラーハ イッラッラー(私は神のみが崇拝に値すると証言する)。

アシュハドゥ アッラー イラーハ イッラッラー(私は神のみが崇拝に値すると証言する)。

アシュハドゥ アンナ ムハンマダッ=ラスールッラー(私はムハンマドが神の使徒であると証言する)。

アシュハドゥ アンナ ムハンマダッ=ラスールッラー(私はムハンマドが神の使徒であると証言する)。

ハイヤー アラッ=サラー(礼拝に来たれ!)

ハイヤー アラッ=サラー(礼拝に来たれ!)

ハイヤー アラル=ファラーハ(成功に来たれ!)

ハイヤー アラル=ファラーハ(成功に来たれ!)

アッラーフ アクバル(神は至大なり)

アッラーフ アクバル(神は至大なり)

ラー イラーハ イッラッラー(神以外に崇拝に値するものはない)

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午後の礼拝に学校の生徒達が加わった、米国ニュージャージー郊外のとあるモスクの光景。米国では多くのイスラーム地域が都市の郊外に広がりつつあります。(AP Photo/Daniel Hulshizer)

金曜日はイスラームにおける合同礼拝の日であり、その礼拝は一週間で最も重要なものです。金曜日の礼拝には以下のような特徴があります:

·通常の正午過ぎの礼拝に取って代わり、それと同じ時間に行なわれます。

·イマームと呼ばれる先導者によって合同で行なわれ、個人では行うことが出来ません。非イスラーム地域に住むムスリムたちはスケジュールを調整し、極力この礼拝に参列出来るよう努力しています。

·ユダヤ教における安息日とは違い、ムスリムにとっての金曜日は献身と崇拝の日であり、他の日同様に仕事をすることも許されています。この日普段通りの活動は出来ますが、合同礼拝のための時間を割かれなければなりません。合同礼拝が済めば、再び通常通りの活動に戻ることが出来ます。

·一般的に金曜日の合同礼拝はモスクで行なわれますが、モスクのない地域では借りた場所や公園などで行なうことも可能です。

·礼拝の時刻になると、アザーンが呼びかけられます。そしてイマームは聴衆の前で説教(アラビア語ではフトバ)を行ないます。説教は金曜日の礼拝における本質的部分であり、必ず行われなくてはなりません。尚イマームが説教している最中は、その場の誰も喋ったりせずに静かに傾聴します。非イスラーム地域における大半のイマームは英語を用いますが、一部ではアラビア語も用いられます。またアラビア語を用いるイマームは、その前に現地の言葉で短いスピーチをします。

·説教には二部あり、その中程でイマームが一旦腰を下ろすことによってその区切りとします。説教は神への称賛や預言者ムハンマド(彼に神の称賛を)への祈りの言葉で開始されます。

·説教後にはイマームの先導によって礼拝が開始され、アル=ファーティハ章を始めとしたクルアーンの節々が朗誦されます。それが終ると礼拝の終了です。

またイスラームの二大祭でも同様に、説教を含む大きな合同礼拝が朝行なわれます。その内の一日は斎戒の月であるラマダーン終了直後に行なわれ、もう一方は巡礼、すなわちハッジの後に行なわれるものです。

また宗教的義務ではありませんが、個人で献身的に行う礼拝‐特に夜中の礼拝‐も重要視され、信心深いムスリムたちによって広く実践されています。

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イスラーム第三の柱:定めの喜捨

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説明: イスラーム第三の柱である定めの喜捨“ザカー”について。またザカーと慈善行為の精神的重要性、そして金銭に対するイスラーム的価値観。

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  • 掲載日時 21 Dec 2009
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イスラームは慈善行為を推奨するだけでなく、経済的に余裕のある全てのムスリムの義務行為としています。必要としている人たちに慈善を施すことはムスリムとしての特性の一部であり、イスラーム信仰の実践における五柱の一つです。“ザカー”とは“定めの喜捨”のことであり、神によって富を授けられた者たちは、困窮している共同体の一員に対して責任を負わなくてはなりません。普遍的慈愛心に欠ける一部の人々は利子をつけてお金を貸し出し、富を貪り貯め込みますが、イスラームの教えはこういった姿勢に真っ向から反対します。イスラームは富の分配と、人々が自立して社会における生産的な一員になることを推進するのです。

アラビア語のザカーは、直訳すれば“浄化”といった意味です。これは、ザカーが人々の心を貪欲さから浄化すると見なされているからです。富への愛は自然なものであり、人が自分の富を他人に分け与えることには、確かなる神への信仰が必要とされます。ザカーは金銀、貨幣、家畜、農産物、そして商用品といった、定められた種類の財産から支払われなければなりません。これらの種類の財産をある一定の額において丸一年間所有すると、年間その2.5%の額を寄与として要求されます。

個人と集団の義務である礼拝と同じように、ザカーはムスリムの崇拝行為と神への感謝を困窮者の救済という形で体現します。イスラームでは全てのものの真の所有者は人間ではなく神であるとするため、富ゆえに働くこと、そしてそれによって名声を高めようとするような姿勢は咎められるのです。単なる富の蓄積は、神の御前では何らの意味もありません。富はそれ自体では、現世と来世において人を益することはないのです。イスラームは自分自身と他人のどちらの必要をも満たすために、富を稼ぐ意図を持つよう教えます。

預言者は言われました:「人は言う:“私の富が!私の富が!”と。あなたの富は、施すことにより蓄えられるのである。それでもあなたは富を貯め込み、衣服や食事にそれを使い果たすというのか?

イスラームにおける富の概念は、神からの贈与です。神は人に富を授け、そしてその内の一部を貧者のものとし、彼らがそこから分け前を受け取る権利を与えたのです。ザカーは、神にこそ全ての所有権が属することをムスリムに思い出させます。人々は神によって富を委託されているのみであり、ザカーはムスリムを富への愛から解放すべく定められたのです。神はザカーによって支払われた貨幣を必要としている訳ではなく、またかれがそれを受け取るのでもありません。神はいかなる類の依存をも超越しているからです。神はその無限の慈愛により、ザカーが神の名において支払われることのみを条件に、それに対する報奨を約束するのです。私たちは受取人からいかなる世俗的見返りをも期待したり、要求したり、また施しによる名声を目的にしたりすべきでもありません。そして施す相手に劣等感を抱かせたり、人から援助されることを思い出させることによってその感情を傷つけたりしてはならないのです。

ザカーとして施された財産は、特定の事柄に対してのみ使用されます。クルアーン(9:60)に明記されているように、イスラーム法では施しは貧者、孤児、未亡人やその他の困窮者、そして奴隷や債務者を自由にするために使用されなければならないと規定されています。ザカーとはムスリム社会における社会保障制度として、約1400年前から機能していたのです。

ユダヤ教とキリスト教の啓典の中では、奴隷の解放が崇拝行為のレベルにまで高まり、またその行為が称賛されることもありませんでした。実に世界宗教の中でも、信仰者に対して奴隷への経済的援助による自立を促しつつ、彼らの解放を崇拝行為(もし神のご満悦を得る意図であれば)にまで昇華させる教えは、イスラームの他に類を見ないのです。

過去にはカリフ制度の元で、国家がザカーの徴収と分配の役割を担っていました。現在のムスリム世界ではごく限られた任務を果たす一部の国々以外は、ザカーは個人の責任に委ねられています。また非イスラーム地域に住む大半のムスリムたちは慈善団体やモスク、または貧しい人々に直接手渡すことによってザカーを配分しています。必要な財産は宗教行事や募金活動などによって収集されるわけではありませんが、せいぜいモスク内にその分配を代理人に委託するための募金箱が設置されるくらいです。またザカー以外の任意の喜捨においては、自らの意図を神のみに向けて純粋なものとするために、人目を忍んで行ったり、あるいは秘密裏に施すことがより良いとされています。

クルアーンとハディース(預言者ムハンマドの言行集)においてはザカーと同様に、困窮者のためのサダカという任意の喜捨も強調されています。クルアーンは飢える者への食事の施しや衣服を所有しない者への寄与、困窮者の救済を強調していますが、人が他人を助ければ助けるほど神はその者をお助けになり、また他人に与えれば与えるほど、神もその者にお与えになるのです。そして人は他者を養うことによって、自らに対する神の扶養を感じることが出来るのです。

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イスラーム第四の柱:ラマダーンの斎戒

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説明: イスラーム第四の柱であるラマダーンの斎戒とその精神的恩恵、そして他の世界宗教における斎戒の概念について。

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斎戒はムスリム(イスラーム教徒)特有のものではありません。宗教的儀式としての斎戒はキリスト教徒、ユダヤ教徒、儒教徒、ヒンズー教徒、道教徒、ジャイナ教徒などによって行なわれて来ました。神はこの事実をクルアーンにおいて述べられています:

“信仰する者よ、あなた方以前の者に定められたようにあなた方にも斎戒が定められた。恐らくあなた方は主を畏れるであろう。”(クルアーン2:183)

一部のアメリカ原住民社会では、惨事を防ぐためや罪の償いとして斎戒が行なわれていました。北アメリカ原住民は自然災害を防ぐために部族による集団斎戒を行なっていましたし、メキシコのアメリカ原住民とペルーのインカ帝国では、懺悔の斎戒をして彼らの神々をなだめていたのです。またアッシリア帝国やバビロニア帝国などの旧世界の諸国家でも、懺悔という形式の斎戒が行われていました。またユダヤ人は毎年一度のヨム・キプル(または贖罪の日)に、懺悔と浄化を目的として斎戒します。彼らにはこの日、飲食が許されていません。

初期のキリスト教徒もまた、斎戒を懺悔と浄化に関連付けていました。キリスト教の誕生後の二世紀内に、キリスト教会は聖餐を受ける儀式の為の自発的な準備や洗礼儀式、あるいは司祭の聖職授任の為の斎戒を設けました。そしてその後、斎戒には別の日数も追加されて義務行為となりました。また紀元六世紀には四旬節の斎戒が40日間に延長されましたが、一日に一回の食事だけは許されました。宗教改革後も大半のプロテスタント教会によって斎戒は維持され、一部では任意行為とされましたが、厳格なプロテスタント教徒たちは教会の祭礼のみならず、伝統的斎戒でさえ非難しました。

一方ローマ・カトリック教会では、部分的な飲食の節制、または完全な斎戒が共に行なわれて来ました。カトリック教徒の斎戒は、“灰の水曜日”と“聖金曜日(受難日)”に行なわれます。ちなみに米国では主にカトリック信者、またプロテスタントでは米国聖公会とルター派信者、そしてユダヤ教の正統派と保守派によって斎戒が行なわれています。

また斎戒は西洋において、インド独立運動の父マハトマ・ガンジーは非暴力の教訓を追従者たちに実行させるために断食しましたが、これによりハンガーストライキは有名になりました。そして現代においては、一つの政治的武器となったのです。

こうした中イスラームは何世紀にも渡って、斎戒の外面的および精神的重要性の両方を保持し続けている唯一の教えです。利己的な動機に基づいた生活で私利私欲に目がくらんでいれば、人は創造主から遠ざかるものです。最も厄介な人間の感情とは誇りや貪欲さ、大食や色情、嫉妬や怒りといったものですが、これらの感情は本来その制御が容易ではないため、それに打ち勝つためには特定の鍛錬に励まなければなりません。ムスリムは斎戒によって魂を清め、最も制御が困難である野蛮な感情に歯止めをかけるのです。人々はこの感情に関して両極端に走る傾向があります。ある人々はそれらの感情によって人生そのものを支配され、古代においては野蛮主義に、そして現代においては消費者文化という愚鈍な物質主義に導かれています。またある人々はこれらの本能的特徴を完全に抑制しようとし、その結果禁欲主義に陥ってしまいました。

さてイスラーム第四の柱であるラマダーンの斎戒は一年に一度、太陰暦九月のラマダーン月に行なわれます:

“ラマダーンの月こそは人類の導きとして、また導きと(正邪の)識別の明証としてクルアーンが下された月である。”(クルアーン 2:185)

尚神はその際限なき慈愛ゆえに病人や旅行者、そしてその他の困難な状況にある者のラマダーンの斎戒を免除されています。

斎戒することによりムスリムは自制心や神の恩恵の理解、そして恵まれない人々への同情心を養います。イスラームの斎戒では日の出から日没まで、あらゆる肉体的欲求を断つことが求められ、それは飲食だけでなく性的行為にも及びます。また神聖なこの月においては、通常禁じられている事柄もより強く禁じられます。斎戒中は四六時中、神への従属的な愛により、自らの欲求を制しなければなりません。この義務に対する意識と忍耐の精神が、私たちの信仰を揺るぎないものとするのです。また斎戒には、自己の制御能力を培わせてもくれます。また飲食のように普段認可されているものから斎戒する者は、日常の自分の罪に対する意識が高くなります。この精神性の高揚は、嘘や異性への欲望のまなざし、噂話やその他の時間を無駄にする様々な悪癖などから脱却する良い機会を与えてくれます。また空腹と喉の渇きを直に味わえば、世界中の飢えた人々の窮乏を実感出来るでしょう。自分でその苦しみを味わわない内は、飢餓に対する本当の認識を抱くことも不可能ではないでしょうか?ラマダーンはまた、慈愛と施しの月でもあるのです。

日没後に斎戒が解かれると、イフタールと呼ばれる軽食が摂られ、夜になれば家族や友人たちが集まり、この時期だけの特別な食事をします。多くの人々は礼拝をしにモスクへ出掛け、深夜にはラマダーンだけの特別な礼拝が行なわれます。ある者たちは徳のある行いとして、この一ヶ月にクルアーンを全て読みきり、またクルアーンの朗誦は毎晩モスクの外まで響き渡ります。また各家庭では日の出前に起床し、日没まで飢えをしのぐことが出来るよう食事を摂ります。ラマダーンが終わりに近づくとムスリムは、“ライラトル=カドル(神威の夜)”という、クルアーンが啓示された夜が祈念します。そしてラマダーン月はイスラームの祭日の一つである、イードル=フィトルといわれる斎戒明けのお祭りで幕を閉じます。ムスリムにとってこの日は喜びに満ち溢れた日となり、ラマダーン月の斎戒達成を共に祝い、子供たちや家族、友人に贈り物を渡すことが習慣となっています。またムスリムは、この日恵まれない人々にザカートル=フィトルと呼ばれる特別な義務の喜捨(その地方の一般的な主食とされるものの配布)をすることによって、皆で幸福な日を迎えることが出来るように努力するのです。

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イスラーム第五の柱:巡礼(ハッジ)

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説明: ムスリムが実践する第五番目の主要義務行為であるハッジの徳と、そこで行なわれる様々な儀礼について。

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  • 掲載日時 06 Dec 2009
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ハッジ(マッカへの巡礼)とは、イスラームの五つの基本的な義務(五柱)の一つとして定められ、ムスリムが実践することを義務付けられている五番目の必須行為です。現実にそのような現象は見られたとしても、イスラームでは巡礼者たちが聖廟や修道院へと赴いて聖者からのご利益を求めるというわけではなく、または奇跡が起きたとされる場所を訪れるわけでもありません。イスラームの巡礼では、預言者アブラハムによって神を崇拝する目的で建てられた、サウジアラビアの聖都マッカのカアバと呼ばれる‘神の館’を訪れます。神はその館を本質的に栄誉高いものとしましたが、それをアブラハムに関連付け、また全てのムスリムが礼拝(サラー)の際にその方角を向く崇拝の中心地とすることで彼に多大な報奨を与えました。巡礼における儀礼は、アブラハムと彼の後に遣わされたムハンマド(彼らに神の称賛を)が行なった同じ方法で、現在もなお行われ続けています。

巡礼は、特別な価値のある行為としてみなされており、人々に懺悔や罪の赦し、また個人的献身行為や精神的高揚の促進などにおける最高の機会を与えてくれます。イスラームにおいて最も神聖な都市であるマッカへの巡礼は、経済的・肉体的に余裕のある全てのムスリムが一生に一度は行わなければならない義務行為です。巡礼の諸儀礼はラマダーン月の3ヶ月後、すなわちイスラーム暦最後の月であるズル=ヒッジャ月の8日に始まり、同13日に終了します。ムスリムはマッカに一年に一度集い、人種や民族を越えて全てのムスリムは平等であり、お互いへの愛情と思いやりを持たねばならないというイスラームの信仰を新たなものとします。ハッジによる異人種間の融和は、以下に引用するマルコム・Xの歴史的巡礼によっても非常に良く描写されています:

「ジェッダへと向かう空港の中では、何千人もの人々が同じ装いをしていた。例え王様や乞食でもこれだと他の人々と見分けがつかないであろう。私の友人はこっそり、とある権力者が私たちの近くにいるのを合図したが、彼は私と全く同じものを着ていた。このような装いの中、我々は断続的に“ラッバイカ!(アッラーフンマ)ラッバイカ!(主よ、あなたの御許に馳せ参じます!)”と声を張り上げた。飛行機では白い肌も黒い肌も、茶色のも赤いのも黄色いのも、そして青い瞳や金髪も、それに加えて私のちぢれた赤毛も一緒に同じ場所に混ざり合っていたのである!皆で同じ神を称え、お互いに同様の敬意を表し合っていたのだ・・・

私はそれを機に‘白人’を再評価し始めた。私はその時初めて一般に言う‘白人’というものが第一に特定の態度や行為を示すものであり、肌の色は二次的なものに過ぎないということを悟ったのだった。アメリカにおいていわゆる‘白人’とは、黒人とその他全ての有色人種に対する特定の態度と行為を示す者たちを意味していたのだ。しかしムスリム世界で私が出会った白い肌の人々は、私がこれまでに見て来た他の誰よりも偽りなく親身になってくれた。あの朝は、私の‘白人’という価値観に対する画期的な変革の始まりだった。

そこには何万人もの巡礼者たちが世界中から集まって来ていた。彼らは青い目をした金髪の者から黒い肌のアフリカ人まで、あらゆる人種から構成されていた。そして我々は皆同じ儀礼を行なっていた。実に私たちは私のアメリカでの経験が白人と非白人の間では絶対起こり得ないと信じさせていたとことの、統一と兄弟愛の精神を体現していたのだ・・・ アメリカはイスラームを理解する必要がある。なぜならそれこそが社会から人種差別を廃絶する唯一の宗教であるからだ。私はイスラーム世界を旅して回るにあたり、アメリカでは外見上白人と見なされるような人々と出会い、話し、更には共に食事をした。しかし彼らの心からはイスラームの教えによって‘白人’の態度が取り除かれていたのだ。私はこれまでに一度も、このような誠実さと真の兄弟愛が肌の色に関係なく、全ての人種によって実践されているのを見たことがなかった。」

巡礼はこのように、世界中のムスリムを一つの仲間として一体にするのです。毎年二百万人以上の巡礼者がハッジに参加しますが、異なる環境からやって来た人々が一つの崇拝行為でまとまることによって、この儀礼は統一の力という役割を果たすのです。一部のイスラーム世界では、巡礼を行った者は‘ハッジ’という称号で呼ばれますが、これは宗教的というよりは地域的な慣習とされます。そしてハッジは神の唯一性という信仰の体現でもあります。全ての巡礼者たちは唯一の神を崇拝し、かれの命令に従うのです。

巡礼者はマッカへと続く路上にある特定のキャラバンの停留地(ミーカート)、あるいはそれらの停留地から最も近い地点を通過する時、イフラームと呼ばれる清浄な状態に入ります。この状態においては、(男性の)巡礼者は頭部に何かをかぶること、爪を切ること、または通常の衣服を着用することなどの、日常における特定の‘通常’行為が禁じられるようになります。男性は脱衣し、イフラーム専用の衣服である縫い目のない二枚の白い布を身にまといます。これらは全て巡礼と聖都マッカ、そしてズル=ヒッジャ月への敬意を増幅させます。停留地は五つあり、その内の一つはマッカの北西、エジプト方面に続く沿岸の平地にあります。またもう一つは南部のイエメン方面に、そして残る三つはそれぞれ北のマディーナ方面と北東のナジド地方方面、そしてイラク方面に位置しています。シンプルな身なりは神の御前における全人類の平等性、そしてあらゆる俗情の排除を表します。そしてイフラームの状態に入った後巡礼者たちはマッカに入り、ハッジの開始を待ちます。ズル=ヒッジャの七日目に巡礼者たちは彼らの諸任務を確認し、八日から十二日まで続く儀礼の開始においてはマッカの外に位置するアラファ、ムズダリファ、そしてミナーといった聖地を訪れます。そしてアブラハムが行なった犠牲を記念し、動物が生け贄に捧げられます。そして巡礼者たちは頭髪を剃るか短くし、ミナーにある特定の石柱に七つの小石を投石し、聖殿カアバの周りを七周し、サファー山とマルワ山とよばれる小丘の間を歩行と走行を含めて七回の往来(三往復半)をします。これらの儀礼に関する歴史的、また精神的重要性の議論は、ここではとても収まりきれません。

またムスリムはハッジとは別に、“小巡礼”またはウムラを年間を通して行います。尚ウムラを遂行しても、ハッジの義務を果たしたことにはなりません。ウムラはイスラームで義務付けられている大巡礼ハッジと似ており、巡礼者はハッジとウムラを別々に、または混合で行うことが出来ます。ハッジと同様、巡礼者たちはイフラームの状態に入ることによってウムラを開始します。そしてマッカに入って聖殿カアバを七周回し、その際に可能であれば黒石に触れ、その後マカーム・イブラーヒーム(アブラハムの立処)の後方で礼拝し、ザムザムの泉から湧き出る水を飲みます。それからサファーとマルワの間を七回行き来し、その後に頭髪を剃刀で剃り上げるか、または短く刈ることによってウムラを終了するのです。

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