マーガレット・マルカス 米国出身の元ユダヤ教徒(2/5)

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説明: マーガレットはユダヤ教徒のクラスメートがイスラームに改宗したこと、そして彼女自身もそれに続いたことを述べます。

  • より マーガレット・マルカス
  • 掲載日時 21 Apr 2014
  • 編集日時 21 Apr 2014
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私がゼニータと出会ったのは、カッツ教授のクラスでした。彼女は私が出会った中でも最も風変わりで、魅力的な女の子でした。私は初めてカッツ教授のクラスに入ったとき、空席を探して教室内を見回しましたが、隣り合う2席をみつけた内、片方には綺麗に製本されたユースフ・アリー訳の注解付きクルアーン英訳の全3巻が置かれていました。私はそこに座ると、その本の所有者が誰なのか凄く気になっていました。ラビ・カッツの授業が始まる直前、色白で背の高く、痩せた赤毛の女の子が私の隣に着席しました。彼女の見た目は非常に特徴的だったため、私は彼女がトルコやシリアなどの近東諸国の出身ではないかと推測しました。他の生徒達の大半は、ラビになることを目指す正統派ユダヤ教の黒い帽子をかぶった青年たちでした。私たち2人は、クラスの中の紅一点でした。その日の午後、図書館を出るときに彼女は私に自己紹介をしました。彼女は正統派ユダヤ教の家庭に生まれ、両親は1917年の十月革命の数年前、迫害を逃れてロシアからアメリカに移住したのだと言いました。私は彼女の英語に微妙な訛りがあることに気付きました。彼女は、自分の家族とその友人たちは、イディッシュ語だけを使っており、彼女自身は公立校に入るまでは全く英語を学んだことがなかったと言いました。彼女の名はゼニータ・リーバーマンだったものの、アメリカ化するために、両親が性をリーバーマンからレーンに変えたことを話しました。父親によって幼少の頃からヘブライ語の手ほどきを受け、学校でもそれを学んだ彼女は、現在は時間さえあればアラビア語の勉強に励んでいると言いました。しかし、私はそのクラスの全課程を修了したものの、彼女は途中で全くの予兆なく出席を止め、二度と戻ってきませんでした。数カ月が経ち、私がゼニータのことを忘れかけていたとき、突然彼女は電話をかけてきて、メトロポリタン美術館で特別展示中の、精巧なアラビア書道とクルアーンの初期の彩飾写本を一緒に見に行かないかとせがんできました。美術館での鑑賞中、彼女はパレスチナ人の友人を証人として、イスラームに改宗していたことを私に告げました。

私は尋ねました。「なぜムスリムになることを決めたの?」彼女は、重度の腎臓炎を発症して病床にあったため、カッツ教授のクラスに出席できなかったことを明かしました。その症状はあまりにも致命的だっため、両親は彼女が生き延びることが出来ないと思っていたそうです。「ある昼下がり、高熱で苦しんでいたとき、私はベッドの隣においていた聖クルアーンを手に取って朗誦しはじめると、それは私の心を強く揺さぶって、私はむせび泣いたのだけど、そのとき自分の回復を確信したの。ベッドから立ち上がれる程良くなると、私はすぐに友人のムスリムを2人呼び出して「シャハーダ」、つまり信仰宣言をしたのよ。」

私はゼニータとシリア料理のレストランで食事をするようになり、その風味に虜になりました。お金に余裕のあるときはクスクス(地中海料理)や、羊のローストにライス、またはジューシーなミートボールの浮かぶスープにピタパンをつけて食べたりしました。また、あまりお金のないときはアラビア式にレンズ豆とライス、または黒豆、にんにく、玉ねぎのふんだんに入った「フール」と呼ばれるエジプトの国民的料理を食べました。

カッツ教授が授業中に教えていたように、私は頭の中で旧約聖書とタルムードで読んだものと、クルアーンとハディースによる教えを比べ、ユダヤ教というものが非常に不完全なものだと気付いたため、イスラームに改宗することにしました。

Q:あなたがムスリムたちから受け入れられないことを危惧したことはありませんでしたか?

A:私のイスラーム、そしてイスラーム的価値観への傾倒は、私の知るユダヤ人たちを激怒させました。彼らは私が最悪の方法で彼らを裏切ったのだと見なしました。「そのような評判は、ただお前の先祖代々の家系に恥を塗り、人々からの憎悪の対象となるだけなのだぞ」と彼らは私に告げました。彼らは、たとえ私がムスリムになろうとしても、決して彼らからは受け入れられることはない、と警告しました。私はムスリムによって、自分のユダヤ教徒という出自から汚名を着せられたことは一度もなかったため、そうした危惧は全く根拠のないものだったことが証明されました。私はムスリムになってすぐ、すべてのムスリムたちから彼らの一員として熱烈な歓迎を受けたのですから。

私がイスラームに改宗したのは、自分の家系や人々を嫌っていたからではありません。それは実現すべき欲求の拒否ではありませんでした。私にとって、それは偏狭さから躍動的かつ革命的な信仰への移行だったのです。

Q:あなたがイスラームについて学ぶことを家族は反対しなかったのですか?

A:私は1954年からムスリムになりたいと思っていましたが、家族は私の説得に成功していました。ユダヤ教やキリスト教と違い、イスラームはアメリカ社会の一部ではないことから、それは人生を困難にさせると私に警告されていました。また、イスラームは私を家族やコミュニティから孤立させるとも告げられていました。当時、私の信仰心はそれらのプレッシャーに耐え得るほどのものではありませんでした。こうした内的な確執もあって私は病を患い、大学を中退せざるを得ませんでした。その後の2年間、私は個人的なメディカルケアのもとに家に閉じこもっていましたが、病気は悪化の一途を辿りました。1957〜1959年の間、私は両親によって病院に閉じ込められていましたが、もし退院出来るまでに回復したのなら、私はイスラームに改宗することを誓いました。

退院が許された後、私はニューヨーク市でムスリムに会うことの出来るあらゆる機会を探索しました。幸いなことに、期待を上回る程の洗練されたムスリム男女に会うことが出来ました。また、私はムスリムの雑誌に記事の投稿を始めました。

Q:あなたがムスリムになった後の両親と友達の反応はどうでしたか?

私はイスラームに改宗すると、それ以外のことを考えたり話したり出来なかったため、両親、親族、そして彼らの友人たちは私を狂信者と見なしました。彼らにとって宗教とは、純粋に個人的な関心事に留まるべきもので、趣味などと同様の文化的活動の一部でなければならなかったのです。しかし、私は聖クルアーンを読んだ途端、イスラームは趣味などではなく、生き方そのものであることを確信したのです。

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