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当然のことながら、利子を禁じ、それを卑しむべき行為とみなす宗教はイスラームだけではありません。ある程度の利子の禁制は、旧約・新約聖書共に見られます。旧約聖書では多くの箇所で「高利貸し(Usury)」「利息(Interest)」について言及されます。(UsuryとInterestはもともと同じ意味合いで使用されていましたが、時代と共にUsuryは過度な、あるいは法外な割合の利子として用いられるようになりました。それゆえ脚注でも言及されるように、米国標準約バイブル(欽定訳改訂版)ではジェームズ王約(欽定訳)のUsuryをInterestへと幾度も変更したのです。)
申命記23:20−21ではこのように記されています:
“同胞には高利貸しをしてはならない。銀の高利も、食物の高利も、その他いかなるものも高利を付けてはならない。外国人には高利貸しをしてもよいが、同胞には高利貸しをしてはならない。それは、あなたが入って得る土地で、あなたの神、主があなたの手の働きすべてに祝福を与えられるためである。”(ジェームズ王版)
同様に、出エジプト記でもこう記されています:
“もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から高利を貪ってはならない。(ジェームズ王訳)”
レビ記25:37ではこう記されています:
“その人に金を貸す場合、高利を取ってはならず、食料を貸す場合も利子を付けてはならない。”(ジェームズ王訳)
またエレミヤ書15:10では、預言者は一度も利子を取ったことがないのに呪われたことへの不満を訴えていますが、そのことは利子を取る者が呪われるにふさわしいことを意味しています。そして、おそらく旧約聖書の利子に関する最も凄惨たる節のひとつは、エゼキエル書18:13でしょう:
“利息を天引きして金を貸し、高利を取るならば、彼は生きることができようか。彼は生きることはできない。彼はこれらの忌まわしいことをしたのだから、必ず死ぬ。その死の責任は彼にある。”
旧約聖書には利子の禁制を示す節々が他にもありますが、ここでは上記で紹介されたものだけで十分でしょう。Easton’s Bible Dictionary (イーストン・バイブル辞書)は、利子に関するモーセの律法をこのように要約しています:
モーセの律法は、古代イスラエル人が借用を必要とした際、貸し出しは自由にしても良く、利子は課してはならないと要求していますが、よそ者に対しては利子を課しても良いとします(出エジプト記22:25、申命記23:19−20、レビ記25:35−38)。また7年後には、すべての負債が帳消しになりますが、よそ者に対しては貸与が取り立てられます。ヘブライ共和国の後期になり通商が増えてくると、貸与に対する利子の取り立てが増加しました。しかしヘブライ人に対する取り立ては不名誉なことと見なされました(詩篇15:5、箴言6:1,4、11:15、17:18、20:16、27:13、エレミヤ書15:10)。
不幸にも、実践問題に関してたびたびそうであるように、新約聖書では利子問題においても幾分か曖昧にされています。The Encyclopedia of Religion and Ethics(宗教・倫理百科事典)によると、「そこには、(利子に関して)キリスト教徒の道徳心を導く直接的な教訓はありません。」しかし、新約聖書のイエスの教えとされる部分では、利子の実践に反対する明確なくだりがあります。あるくだりでは、イエスはこのように言ったと伝えられています:
“しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。”(ルカ6:35)
このくだりでは、元金を受け取ることを期待せずに貸し出しなさい、とキリスト教徒たちに告げられています。これは「厳しい言葉」のひとつであると見なされ、キリスト教学者たちはこういったくだりをどのように解釈し実践に移すかで見解を異にしています。
マタイによる福音書の25:14−28には、神が異なる量のコイン(タラントンと呼ばれるもの)を様々なしもべに与えるたとえ話があります。彼らの一部はその貨幣を投資し、神によって与えられたものよりも多くのものを神へと捧げました。しかし、神がそのコインを一枚だけ与えた人物が、18節で説明されています:
“しかし、一枚を預かった者は、出て行って穴を掘り、主の金を隠しておいた。”
神がそのしもべを呼び、彼がそのお金で何をしたかを問いただしたとき、ただ一枚のタラントンを受け取った者はこう言いました:
“ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『主よ、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』”(マタイ25:24−25)
主は彼に対し、厳しくこのように応えられました:
“主は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を両替商の元に預けておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。』”(マタイ25:26−28)
Geneva Study Bible (ジュネーブ・バイブル研究)は、このくだりを注釈してこう述べています:
銀行家は店舗または店外で利子を付けてお金を貸与します(出エジプト記22:25−27、申命記23:19−20)。高利貸し、または利子を付けたお金の貸与は、バイブルによって厳しく禁じられています。たとえその割合が1%であっても、利子は許されませんでした(ネヘミヤ記5:11)。このしもべは嘘を二回つきました。彼はまず、主について厳格で無慈悲であると言いました。主は慈悲深く寛大であるため、それは嘘です。次に、彼は蒔かなかった場所へ刈り取りに行き、主について泥棒であると言いました。最終的に、彼の主は皮肉を込めてこのようなことを言いました:「なぜ損害について侮辱を加えず、お金に利子を加えて貸し出して、主について“高利貸し”と言わなかったのか?」。もしもしもべがそうしたのであれば、彼の主はしもべの行為について責任を持ち、高利貸しの罪を犯したことになります。
初期教会の公会議は、旧約・新約聖書に基づいて利子を禁じています。やがて聖職者だけでなく、すべてのキリスト教徒は利子に携わることが禁じられるようになりました。トマス・アクィナスに代表される一部のキリスト教神父たちは、利子問題に関する詳細を論じています。「グラティアヌス法令に続き、第三ラテラン公会議(1179)では、キリスト教法としてこう定められています:『表立って利子を取る者は、コミュニオンへの参加が認められないだけでなく、彼らが罪深いまま死んだ場合、キリスト教式の埋葬も認められない。』」1215年の第四ラテラン公会議では利子が非難されましたが、ユダヤ教徒には認められました。カトリック教徒に関しては、19世紀まで利子の禁制を固く守っていました。プロテスタントの指導者だった16世紀のマルチン・ルターも同様に利子を非難しましたが、どうやら人間の弱さを口実として許可を出したようです。キリスト教指導者たちによる利子への懐柔的な見解は、カルバンを始めとして広まりだしました。そして徐々に民法は教会法にとって代わり、利子が制度化され出したのです。
利子を非難したのは、ユダヤ・キリスト教思想のみではありませんでした。事実、ギリシャの哲学者たちも利子に関しては非常にネガティブな見解を持っていました。アリストテレスやその他の著名な哲学者たちも利子を非難しています。オーストリア人経済学者として名高いオイゲン・フォン・ベーム・バヴェルク(ベーム=バヴェルクとしても知られています)は、その重要な著作Capital and Interest (資本と利子)でこう述べています:
古代世界における決して少なくはなかった敵意のある表現は、一部は利子の搾取を禁じる法令、そして一部はプラトン、アリストテレス、二人のカトー、キケロ、セネカ、パントスなどによる偶有的発言によって構成されている。ギリシャ哲学者らは、金銭を単なる交換の手段と見なしており、それゆえ彼らは金銭の貸与の生産性を否定したのである。アリストテレスの学説は、金銭は別の金銭を生じさせることが出来ないというものだった。利子は不正なものであるということが、歴然とした結論だったのである。
当初は、ローマ帝国も利子の徴収を禁じていました。商人層の増加と共にそれは多少緩和されましたが、依然として利子を伴う貸与は厳しく制限されていましたし、債務者を保護する法律も存在していました。
シェークスピアのベニスの商人(1596年頃の作)の登場人物シャイロックは、高利貸しがいかに軽蔑されていたかを表しています。ここで、いかに利子が西洋において軽蔑・禁止された行為から、社会的に認められ、制度化されるまでに至ったのかという疑問が浮かび上がります。
“もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して債権者のようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。”(米国標準訳)
Boehm Bawerk, Capital and Interest (1959), Vol. I, pp.
10-11, Quoted from Afzal-ur-Rahman, Economic Doctrines of Islam (Lahore,
Pakistan: Islamic Publications Limited, 1976), vol. III, p. 11. Also see
Qureshi, p. 6; El-Gousi, p. 114.
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