神への信仰(パート 3/3)

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説明: 神への信仰における残り二事項についての説明。神のみが崇拝の対象とされること、そして神の美名と属性によりかれを知ること。

  • より IslamReligion.com
  • 掲載日時 05 Dec 2009
  • 編集日時 05 Dec 2009
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(三)神のみが崇拝の対象であるということ

イスラームでは、神の存在を複雑難解な神学によって証明するのではなく、神への信仰がいかにして良い道徳観と正しく従順な人生をもたらしてくれるかを強調します。それゆえイスラームのモットーとは、神の存在の証明よりはむしろ、諸預言者によって説かれたメッセージである神の意思への服従や崇拝行為といった面に置かれているのです:

“(ムハンマドよ)あなた以前にも、われが遣わした使徒には、等しく、「われの外に神はない、だからわれに仕えよ。」と啓示した。”(クルアーン21:25)

神のみにこそ、人々の心身による内面的かつ外面的な崇拝行為を受ける権利があるのです。そして何ものもかれをさしおいて崇拝されることが許されないだけでなく、何ものもかれと並べて崇拝されてはなりません。神には同位者や協力者がいないのです。包括的な意味での崇拝行為とは、あらゆる側面において神のみに対して行なわれなければなりません。

“あなた方の神は唯一の神(アッラー)である。かれの他に神はなく、かれは慈悲あまねく慈愛深き方である。”(クルアーン2:163)

神の崇拝される権利については、誇張してもし過ぎることはありません。というのも、これこそがイスラームにおける信仰証言である、「ラー・イラーハ・イッラッラー」の本質的意味であるからです。人は、神の崇拝権利を証言することによってムスリムとなります。これはイスラームにおける神への信仰の最も重要な点であり、神により遣わされた全ての預言者の主要なメッセージでした。それはすなわちアブラハム、イサク、イスマエル、モーゼ、ヘブライの諸預言者、イエス、そしてムハンマド(彼らに神の平安あれ)のメッセージです。例えばモーゼはこのように宣言しています:

“聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。”(申命記 6:4)

イエスはこの1500年後、同じメッセージを繰り返したのです:

“第一のいましめはこれである、「イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。」”(マルコによる福音書 12:29)

イエスは悪魔に言いました:

“サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてあるのだから。”(マタイによる福音書 4:10)

そしてイエスの約600年後、ムハンマドの呼びかけはメッカの丘々に響き渡りました:

“あなた方の神は唯一の神(アッラー)である。かれの他に神はなく、かれは慈悲あまねく慈愛深き方である。”(クルアーン 2:163)

そして彼ら預言者と使徒は皆、明確にこう宣言しています:

“アッラーに仕えなさい。あなた方にはかれの他に神はないのである。”(クルアーン 7:59、65、73、85;11:50、61、84;23:23)

崇拝行為とは何か?

イスラームにおける崇拝行為とは、アッラーが認め愛されるところのあらゆる行為、信念、言明、感情などから成り立ちます。それらはすなわち、人を創造主へと近づける全てのものです。そしてそこには日々の礼拝、断食、喜捨、巡礼などの‘外面的’崇拝、そして信仰六か条の信仰、敬意、崇敬、愛、感謝の念、そして信頼などの‘内面的’崇拝も含まれます。神は心と体、そして魂によって崇拝されるべきで、重要な四つの要素‐恭しい神への畏れ、神への愛情と崇敬、神からの報奨への期待、そして強い謙遜の念‐を欠けば、それは不完全とされます。

最も大きな崇拝行為の一つは礼拝であり、聖なる存在である神の援助を乞うことです。イスラームは、礼拝が神のみへと向けられるべきであることを明確にしました。全ての人間の運命を完全に管理し、人々の要求を満たし苦悩を取り除くことが出来るのは神だけなのです。イスラームにおいては、神が礼拝を受ける権利を保持します。

“またアッラーを差し置いて、あなたを益せずまた損いもしないものに祈ってはならない。もしそのようなことをするならば、あなたは本当に不義者の仲間である。”(クルアーン10:106)

預言者、天使、イエス、マリア、偶像、もしくは自然界など、その対象がいかなるものであれ、礼拝などの神のみへと向けられるべき崇拝行為をかれ以外の者に向ける行為はシルクと呼ばれ、イスラームにおける最も重い罪とされます。シルクは創造の目的を根本から否定し、そこから悔悟しない限りは絶対に赦されない罪なのです。

(四)神の美名と属性

神はイスラームにおいて、その数々の美名と性質で知られています。それはそれらが本来の明白な意味の改ざんや否定、あるいは具現化や擬人化などを見ないまま、イスラームの原典の中に啓示が下されたその時のままの形で残っているためです。

“最も美しい全ての御名はアッラーに属する。それでこれら(の御名)で、かれを呼びなさい。”【クルアーン 7:180】

それゆえ神を呼ぶ際、根本的原因、作者、実質、絶対自我、絶対者、純粋観念、論理的観念、未知者、無意識者、自我、観念、大男などの名をあてがうべきではないのです。それは神がご自身をそのように描写しておらず、単純に言って美しさに欠けるからです。神の美名の数々は、神の荘厳なる美しさと完璧さを表しています。神は不正をせず、子や親や兄弟、仲間や助手などを有しません。神は生まれたのでもなく、生みもしません。また神は完全であるため、いかなる助けも必要としません。そして神は私たちの苦難を“理解”するために人間になったりもしません。神は全能者(アル=カウィー)であり、比類無き者(アル=アハド)であり、悔悟を受け入れる者(アッ=タウワーブ)であり、慈悲あまねく者(アッ=ラフマーン)であり、不滅者(アル=ハイユ)であり、自存者(アル=カイユーム)であり、全知者(アル=アリーム)であり、全聴者(アッ=サミーウ)であり、全視者(アル=バスィール)であり、容赦する者(アル=アフーウ)であり、援助者(アン=ナスィール)であり、治癒する者(アッ=シャーフィー)なのです。

最も頻繁に用いられている美名としては、“慈悲あまねく者”、“慈愛深き者”などがあります。そしてクルアーンの全ての章は唯一つの章を除き、次の言い回しによって始まるのです。

“慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。”

この言い回しはムスリム(イスラーム教徒)によって、キリスト教徒の祈願で聞かれるような、「父と子と聖霊の御名によって」という言い回しよりも頻繁に使用されています。ムスリムは飲食を始め、生活のあらゆる場面でいかなる事を始めるにあたっても神の名において開始し、神のご慈悲とお情けを思い起こしているのです。

また“赦し”とは、人と神との関係において多大なる重要性を持っています。人間は弱い存在であり罪を犯さずにはいられませんが、神はその深いご慈悲によって快くお赦しになるのです。預言者ムハンマドはこう言われています:

“神の慈悲は、かれの怒りに勝るのです。”(サヒーフ・ブハーリー)

ゆえに“慈悲あまねき者”や“慈愛深き者”と並んで“赦す者”(アル=ガフール)、“よく赦す者”(アル=ガッファール)、“悔悟を受け入れる者”(アッ=タウワーブ)、そして“容赦する者”(アル=アフーウ)などの美名もまた、ムスリムの礼拝中に最も頻繁に使用される御名の中に含まれてるのです。

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