真の宗教(1/8):どれが神の真の宗教か?

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説明: 著作「真の宗教」の第1章。すべての宗教はそれぞれ自らが真の宗教であると主張する中で、知性によってそれを見出す方法。

  • より Dr. ビラール・フィリップス
  • 掲載日時 01 Sep 2014
  • 編集日時 14 Aug 2022
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The_True_Religion_(part_1_of_8)_001.jpg人はそれぞれ、自分では選択のできない状況の中に生を受けます。家族の宗教、国家の理念などは、現世での生活が始まった時から人に押し付けられたものです。人は10代にもなると、既に自分の属する社会が正しい信条を持ち、人は皆それに従わなくてはならないものだと完全に洗脳されてしまいます。しかしながら、一部の人々は成熟した後に他の信念体系に晒されると、自らのものの正当性に疑問を抱くようになります。真理の探求者はたびたび、あらゆる宗教・宗派・理念・哲学は、それぞれが自分こそが唯一の真理であると主張することを認識し、混乱に陥る場面に到達します。実際、それらはみな人々に善行を促します。そうなのであれば、一体正しいのはどれなのでしょうか? それはすべて他が間違っていると主張することから、それらすべてが正しいということはあり得ません。であれば、真理の探求者はいかにして正しい道を見つけ出すべきなのでしょうか?

神は私たちに頭脳と知性をお与えになり、そうした重大な決断をすることを可能とさせました。実にそれは、人の人生における最も重要な決定なのです。それによって、人の未来が左右されます。したがって、私たちはそれぞれ提示された根拠を公平に審査し、さらなる証拠が持ち上がるまでは正しいと思えるものを選ばなければなりません。

他のすべての宗教や哲学と同様、イスラームも自らを神への唯一の正しい道であると説きます。それに関しては、他の体系とは異なりません。この小冊子では、その主張の正当性についての根拠を提示することを目的としています。しかし、真理に対してたびたび人を盲目にしてしまう感情と偏見を一旦脇に追いやらない限り、真理を確認することは出来ないということが、常に念頭に置かれなければなりません。そうすることによって始めて、私たちは神に授けられた知性を活用し、論理的かつ正しい決断を下すことが出来るようになるのです。

イスラームが神による真の宗教であるという主張を支持する、いくつかの議論があります。以下は、その内の最も明らかな3つです。最初の議論とは、神に由来するこの宗教の名称と、その意味の包括性についてです。第2のものは、神、人間、被造物の間の関係についての独特かつ明快な教えに関するものです。第3のものは、イスラームがあらゆる時代のあらゆる人々にとって実践が可能であるというその包括性の事実に由来します。これらが、一つの宗教が神による真のものであるということを論理と理性によって決定付けさせるために必要な、3つの基本的な構成要素を成すものです。

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真の宗教(2/8):この宗教の名称

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説明: 著作「真の宗教」の第2章。イスラームという名称の意味についての、他宗教との比較。

  • より Dr. ビラール・フィリップス
  • 掲載日時 01 Sep 2014
  • 編集日時 01 Sep 2014
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イスラームについて最初に知り、理解すべきことは、「イスラーム」が何を意味するのかということでしょう。アラビア語で「イスラーム」は、唯一なる真実の神を意味する「アッラー」へ自らの意思を服従させることです。イスラーム宗教は、イエス・キリストにちなんで名付けられたキリスト教、ゴータマ・ブッダにちなんで名付けられた仏教、孔子の教えにちなんで名付けられた儒教、カール・マルクスにちなんで名付けられたマルクス主義、ユダ族にちなんで名付けられたユダヤ教、ヒンズー人(インド人)にちなんで名付けられたヒンズー教などのケースと異なり、創始者の名前にちなんだものでも、後世の人々によって命名されたものでもありません。イスラーム(神の御意への服従)は最初の人間かつ最初の預言者であったアダムに授けられた宗教であり、アッラーによって人類に遣わされたすべての預言者たちの宗教でもあります。さらに、それは神が人類への最終啓示として下された啓典の中でも明確に述べられているように、神ご自身によって選ばれた名称なのです。その最終啓示はアラビア語でクルアーンと呼ばれており、その中でアッラーは次のように述べます。

“今日われはあなたがたのために、あなたがたの宗教を完成し、またあなたがたに対するわれの恩恵を全うし、あなたがたのための教えとして、イスラームを選んだのである。”(クルアーン5:3)

“イスラーム以外の教えを追求する者は、決して受け入れられない。また来世においては、これらの者は失敗者の類である。”(クルアーン3:85)

それゆえ、元来アダムとそれ以降の預言者たちに下されているものであるゆえ、イスラームは7世紀に預言者ムハンマドによって創始された新宗教であるとは主張せず、全能なる神アッラーによる真の宗教の最終的な形態であるとするのです。

ここで、真の宗教であると自称する他の2つの宗教について簡潔に述べておくことがあります。バイブルの中で預言者モーゼの民、またはその子孫の宗教が「ユダヤ教」という名称であると神が啓示している場面はまったく存在せず、キリストの追従者たちの宗教が「キリスト教」と呼ばれるようになるという場面も然りです。言い換えると、「ユダヤ教」と「キリスト教」という名称は、神に由来するものではなく、神の承認があるという訳でもありません。イエスの宗教に「キリスト教」という名称が付けられたのは、彼が去ってからだいぶ後の時代なのです。

では、イエスの宗教とは実際には何だったのでしょうか? 彼の宗教は、それを神との関係を築くための基盤として受け入れるよう説いた、彼による教えに反映しています。イスラームにおいて、イエスはアッラーによって遣わされた預言者であり、アラビア語の名をイーサーといいます。彼以前の預言者たち同様、彼は人々に神の御意に服従するよう呼びかけていました(つまりそれはイスラームの教えそのものです)。たとえば、新約聖書においてはイエスが追従者たちに次のように神へ祈るよう説いています。

“天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。…御心が行われますように、天におけるように地の上にも。”(マタイ6:9−10)

この概念は、福音の中で何度もイエスによって協調されています。たとえば、彼は服従する者のみが天国に入るのだと説いています。

“わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。”(マタイ7:21)

またイエスは彼自身、神の御意に服従していると述べています。

“わたしは自分では何もできない。…わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。”(ヨハネ5:30)

イエスが追従者たちに対し、彼自身は神ではないことを明白にしている場面が複数あります。たとえば、最後の時について彼はこう述べています。

“その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。”(マルコ13:32)

このように、彼以前の他の預言者たち同様、イエスは唯一なる真実の神への服従であるイスラームの宗教を説いていたのです。

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真の宗教(3/8):神と創造

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説明: 著作「真の宗教」の第3章。いかにしてイスラームは被造物に対する崇拝を止め、神のみへの崇拝をするよう呼びかけるのか。

  • より Dr. ビラール・フィリップス
  • 掲載日時 08 Sep 2014
  • 編集日時 08 Sep 2014
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The_True_Religion_(part_3_of_8)_001.jpg神の御意にすべてを委ねることは崇拝の根幹を成すものであることから、神の宗教であるイスラームの根本的メッセージとは、神のみを崇拝し、神以外のいかなる人物、場所、物も崇拝してはならないというものです。あらゆる被造物を創造した神以外のすべてのものは被造物であるため、本質的にイスラームは、人が被造物を崇拝することから遠ざけ、創造主のみへの崇拝を呼びかけるものであると言えます。神こそが、その御意から祈りにお答えになるのであり、かれこそが人間の崇拝に値する唯一の存在なのです。

たとえば、もし誰かが木に祈りを捧げてそれが叶えられたとしましょう。その祈りを叶えたのは、そうした状況を許した神なのです。「そんなことは当然だ」と言う人もいるでしょう。しかし木々を崇拝する人々にとってはそうではありません。同様に、イエス、ブッダ、クリシュナ、聖クリストファー、聖ユダ、さらにはムハンマドに捧げられる祈りは、彼ら自身ではなく、神によって答えられているのです。イエスはその追従者に対し、彼自身ではなく、神を崇拝するよう言ったのです。クルアーンではこう述べられています。

“またアッラーがこのように仰せられた時を思え。「マルヤムの子イーサーよ、あなたは『アッラーの外に、わたしとわたしの母とを2柱の神とせよ。』と人びとに告げたか。」かれは申し上げた。「あなたに讃えあれ。わたしに権能のないことを、わたしは言うべきでありません。”(クルアーン5:116)

イエスが崇拝を捧げていたのは自分自身へではなく、神でしたし、イエスは福音者においてこう述べたことが報告されています。

“イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」”(ルカ4:8)

開扉章として知られる、アル=ファーティハ章の第4節には、基本的原則が示されています。

“わたしたちはあなたにのみ崇め仕え、あなたにのみ御助けを請い願う。”(クルアーン1:5)

最終啓示であるクルアーンでは、他にも神によってこう述べられています。

“それであなたがたの主は、仰せられる。「われに祈れ。われはあなたがたに答えるであろう。」”(クルアーン40:60)

イスラームの根本的な教えには、神とその被造物が全く異なる存在であるということが宣言されているということも強調に値するでしょう。神は被造物と同等でもなければその一部でもなく、また被造物は神と同等でもなければその一部でもないのです。

このことはごく当然に映るかもしれませんが、人が被造物を崇拝しているのは、その殆どがこの概念に対する無知・無視に基づいたものです。それは、神の本質はあらゆる被造物においてみてとれるという迷信、または神はその被造物の中にも存在しているという迷信なのです。それは神の被造物を崇拝し、それ自体が神への崇拝であるとの主張を正当化させたのです。しかし神の預言者たちによってもたらされたイスラームの教えは、神のみを崇拝し、直接的・非直接的に関わらず、被造物の崇拝を避けるということなのです。

クルアーンの中で、神は明確にこう述べます。

“本当にわれは、各々の民に一人の使徒を遣わして「アッラーに仕え、邪神を避けなさい。」と(命じた)。”(クルアーン16:36)

もし偶像崇拝者たちに、なぜ人の手によって作られたものにお辞儀をするのかと問えば、彼らは必ずと言っていい程、彼らの崇拝の対象は石像そのものではなく、それが象徴する(またはそれに内在する)神であると主張します。彼らは、石像は単に神の存在を象徴するものであり、神そのものではないと言うのです。神が被造物の中に何らかの形で存在しているという概念を受け入れた人物は、必ずこの偶像崇拝に関する主張を認めなければならなくなります。しかし、イスラームの基本的な教えを理解する人物は、いかにそれが合理的に説明されようとも、決して偶像崇拝を認めたりはしないのです。

過去に自らの神格性を主張してきた者たちは、神が人の中に宿るという間違った信条をもとにその主張を正当化してきました。彼らは自分たちが霊感に優れており、他の人間は彼らに服従し、彼らを神の化身として崇拝するよう主張します。同様に、特定の人々の死後にそれらの人々の神格性を主張してきた者たちは、神が人に宿るという間違った信条を受け入れた人々に対し、自らの主張を正当化することが出来なかったのです。

ここまでで、イスラームの基本的な教えを理解した人にとっては、いかなる状況においても他の人間を崇拝することに合意することは決して出来ないということが理解出来るようになったはずです。神の宗教の本質とは、創造主への崇拝を呼びかけ、被造物への崇拝を否定することなのです。次は、イスラームのモットーの意味です。

“ラー・イラーハ・イッラッラー”(唯一なる真実の神以外に、神はない)

このフレーズを真摯に宣言し、預言者の存在を認めるのであれば、それは自動的にイスラームへの入信となり、それを心から信じることは天国が保証されます。それゆえ、イスラームの最終預言者(彼に神の慈悲と祝福あれ)は次のように述べたことが報告されています。

“誰であれ、「唯一なる真実の神以外に神はない」と言い、それを信じつつ死んだ者は、天国に入るのだ。”

この信仰宣言を信じることには、神の預言者たちが教えた方法で自らの意思を神に服従させる必要があります。また、それには偽の神々の崇拝を止めることが求められます。

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真の宗教(4/8):偽宗教の教え

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説明: 著作「真の宗教」の第4章。いかにして偽の宗教を識別すべきか。

  • より Dr. ビラール・フィリップス
  • 掲載日時 08 Sep 2014
  • 編集日時 08 Sep 2014
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The_True_Religion_(part_4_of_8)_001.jpg世界には数多くの宗教、宗派、カルト、哲学、団体があり、それらはすべて正しい道、または神への唯一の道であると主張します。いかにして、私たちはそれらのどれが正しいのか、あるいはそれらがすべて正しいのかどうかを知ることが出来るのでしょうか? その答えを知ることの出来る方法の一つは、真理を主張する各宗派の表層的な相違を除去し、それらの呼びかける崇拝の主要な目的を直接的、または間接的に特定することです。偽宗教のすべてには、神に関する一つの基本的概念について共通点があります。それは、人間はみな神であること、またはある特定の人間が神であること、または大自然が神であること、または神は人間による想像の産物であるとされていることです。

それゆえ、偽宗教による基本的な教えとは、神はその被造物の形をとって崇拝される、というものであると言えます。偽宗教は、被造物そのもの、または被造物の一つの側面を神と呼ぶことにより、人々に被造物の崇拝を訴えかけます。たとえば、預言者イエスは追従者たちに神の崇拝を呼びかけましたが、現在イエスの追従者であると主張する人々は、イエスが神であると主張し、イエスの崇拝を呼びかけます。

ブッダはインドの宗教に数々の人道的な思想を導入した改革者でした。彼は自らを神と名乗ったり、追従者たちに自らを崇拝の対象とするよう仄めかしたりもしませんでした。しかし現在、主にインド国外に分布する仏教徒たちは彼を神として崇め、彼に似せて作られた偶像の前にひれ伏すのです。

崇拝の目的を識別する原則を用いることにより、私たちは容易に偽宗教を識別し、それらの目論見を知ることができます。神はクルアーンにおいてこのように述べます。

“かれに仕えないならば、あなたがたとその祖先が命名した、(只の)名称に仕えるに過ぎない。アッラーはそれに対し権能を与えてはいない。大権はアッラーにだけ属し、あなたがたはかれ以外の何ものにも仕えてはならないと(アッラーは)命じている。これこそ正しい教えである。だが人びとの多くは知らない。”(クルアーン12:40)

「すべての宗教は良いことを説いているというのに、なぜどれか一つを選ぶことが重要なのか」という疑問もあるかもしれません。それに対する返答は「すべての偽宗教は、被造物の崇拝という最も罪深い行為を説いているから」です。被造物の崇拝が、人の犯すことの出来る最も重大な罪なのは、自らが創造された目的に反しているからです。アッラーがクルアーンにおいて明確に述べているよう、人間は神のみを崇拝するために創造されたのです。

“ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。”(クルアーン51:56)

また、偶像崇拝の本質である被造物の崇拝は、赦されることのない唯一の罪なのです。偶像崇拝者として死んだ者は、来世における運命を確定させてしまいます。これは選択肢のあるような事柄ではなく、神の最終啓示によって啓示された事実なのです。

“本当にアッラーは、(何ものをも)かれに配することを赦されない。それ以外のことに就いては、御心に適う者を赦される。”(クルアーン4:48,4:116)

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真の宗教(5/8):神による諸宗教の普遍性

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説明: 著作「真の宗教」の第5章。真の宗教に相応しい性質である普遍性とは。

  • より Dr. ビラール・フィリップス
  • 掲載日時 15 Sep 2014
  • 編集日時 15 Sep 2014
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The_True_Religion_(part_5_of_8)_001.jpg偽の宗教に従うことによって払わなければならなくなる代償は非常に深刻であるため、神による真の宗教は普遍的な価値観を共有し、かつ時間や場所にとらわれず常に理解し易いもの・習得し易いものでなければなりません。言い換えると、神による真の宗教とは特定の人種・地域・時代に限定されたものであってはならないのです。またそうした宗教が、洗礼・救世主・仲介者のような神と人間との関係に全く関係ないものを信仰における条件として定めることも理にかなったことではありません。イスラームの根本教義とその定義(自らの意思を神に服従させること)の中には、イスラームの普遍性のルーツが横たわっています。神が唯一無比であり、被造物とはかけ離れているということが実感されると、人は神に服従し、心と身体の双方においてムスリムとなり、天国に入る資格を得るのです。

世界の最も辺境に住むような人物であれ、被造物の崇拝を拒否し、神のみへと立ち返ることで、神の宗教であるイスラームの追従者となることが出来ます。ただし、実際に神の御意に服従するには、常に善悪の選択をしなくてはならないことが念頭に置かれなければなりません。人は神によって善悪の区別だけではなく、どちらかを選択する能力が授けられています。神によって授けられたそうした能力には、自らの選択について責任を負うという重要なことが付随します。また、人は善行に務め、悪行を避ける最善の努力もしなければなりません。こうした概念は、最終啓示において明確に述べられています。

“本当に(クルアーンを)信じる者、ユダヤ教徒、キリスト教徒とサービア教徒で、アッラーと最後の(審判の)日とを信じて、善行に勤しむ者は、かれらの主の御許で、報奨を授かるであろう。かれらには、恐れもなく憂いもないであろう。”(クルアーン2:62)

これらが明白にされた後、何らかの理由によって最終啓示を受け入れることが出来ないという事態になれば、重大な危険が待ち受けています。最後の預言者はこのように述べています。

“キリスト教徒やユダヤ教徒の誰であれ、私について耳にしながら、私のもたらしたものを認めないままの状態で死んだのであれば、地獄の住人となるであろう。”(サヒーフ・ムスリム 第1巻91頁284番)

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真の宗教(6/8):神の認知

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説明: 著作「真の宗教」の第6章。全人類が備える、神を信じる本能。

  • より Dr. ビラール・フィリップス
  • 掲載日時 15 Sep 2014
  • 編集日時 15 Sep 2014
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ここで、こういった疑問が浮かび上がります。「異なったバックグラウンド、社会、文化の人々が同じ唯一の神を信じることなど出来るのだろうか?」人が唯一なる真実の神を崇拝するにあたり責任が問われるようになるためには、かれについての知識が前提となります。最終啓示であるクルアーンは、全人類は皆、創造された時から本能的に唯一なる真実の神を認識する能力が備わっているということを教えます。

クルアーンの第7章(高壁章172−173節)において、神はアダムを創造した際、アダムの子孫全員を一同に存在させ、こう証言させたと述べます。

「われは、あなたがたの主ではないか。」

そして彼らは皆、こう答えたのです。

「はい、わたしたちは証言いたします。」

次に、神はなぜ全人類にかれこそが創造主であり、崇拝に価する唯一なる真実の神であるか証言させたかについて説明します。

“これは復活の日にあなたがた(人類)に、「わたしたちは、このことを本当に注意しませんでした。」と言わせないためである。”(クルアーン7:172)

つまり、私たちは神の存在を留意していなかったと主張すること、また神のみを崇拝すべきであることを告げられていなかったと主張することが出来ないのです。神はそのことについてこう説明します。

“また、「先に神々を崇拝したのはわたしたちの祖先で、わたしたちはその後の子孫です。あなたは、虚偽に従う者が行ったことのためにわたしたちを滅ぼされますか。」と言わせないためである。”(クルアーン7:173)

そのため、すべての子供は神への信仰を先天的に備え、本能的にかれのみを崇拝する傾向を持って生まれてくるのです。この天性の信仰と先天性はアラビア語で「フィトラ」と呼ばれます。

預言者ムハンマドは、神がこう仰せられたと報告しています。

“われは正しい宗教の中にしもべたちを創造したが、悪魔たちは彼らを逸脱させたのである。”(サヒーフ・ムスリム)

また預言者はこうも述べています。

“あらゆる子供たちはフィトラの状態で生まれてくる。しかし、その両親たちが子供たちをユダヤ教徒やキリスト教徒やゾロアスター教徒にしてしまうのだ。”(サヒーフ・ブハーリー)

もしもある子供が一人ぼっちで育ったのであれば、彼は独自の方法で神を崇拝するようになるでしょうが、あらゆる子供は環境による影響を避けることができません。よって、神が自然の中に課した物理法則に子どもが従うのと同様に、子供の魂も神が創造主であるという事実に自然に従うのです。しかし、両親がそれとは異なった道を子供に歩ませようとすると、子供は両親の意思に抵抗するには幼く、無力であるため、従うしかありません。そうした場合、それは慣例的に従っていた宗教であるため、神はその子が一定の年齢に達するまではそれについての責任を問われることも、懲罰を課すこともありません。

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真の宗教(7/8):神のしるし

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説明: 著作「真の宗教」の第7章。唯一なる真実の神の存在が人間にとって明白になるよう、神は人間にしるしを示します。

  • より Dr. ビラール・フィリップス
  • 掲載日時 22 Sep 2014
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The_True_Religion_(part_7_of_8)_001.jpg幼少期からこの世を去る瞬間まで、世界中のあらゆる地域の人々は、その魂にとって真の神(アッラー)が唯一であるということが明白になるまで、人生の中で神のしるしが示されます。神はクルアーンでこのように述べています。

“われは、わが印が真理であることが、かれらに明白になるまで、(遠い)空の彼方において、またかれら自身の中において(示す)。”(クルアーン41:53)

次は、神が偶像崇拝者の誤りに対してのしるしを示す例えです。南米、ブラジル南東部のジャングル地帯において、文明化されていない部族の人々が小屋を建て、彼らにとっての至高の創造神を象徴する偶像を祭りました。翌日、若者が偶像神にお参りをするために小屋に入り、彼が創造主かつ供給者であると教えられていた偶像にひれ伏すと、ノミだらけのみすぼらしい犬がこっそり入ってきました。若者が顔を上げると、犬は後ろ足を上げて偶像に尿をかけました。

憤激した若者は犬を小屋から追い出しましたが、彼の怒りが収まると、その偶像は全世界の主などではないということに気付きました。彼は神が他の場所にいるという結論に達しました。奇妙なことに思えるかもしれませんが、犬が偶像に排尿したのは、その若者にとっては神からのしるしだったのです。ここには、彼の崇拝していたものが偽物であったというしるしが含まれていました。それは彼が伝統に則って偽の神を崇拝することから彼を解放したのです。その結果、彼は選択することが出来るようになりました。つまり、真の神を探求するか、間違った道に従い続けるかのどちらかです。

神は、神の印に従う者がいかに正しく導かれるかという例えとして、預言者アブラハムによる神の探求に言及しています。

“われはこのように、天と地の王国をイブラーヒームに示し、かれを全く迷いのない信者にしようとしたのである。

夜(の暗闇)がかれを覆う時、かれは一つの星を見た。かれは言った。「これがわたしの主です。」だが星が沈むと、かれは言った。「わたしは沈むものを好みません。」

次いでかれは月が昇るのを見て、言った。「これがわたしの主です。」だがそれが沈むと、かれは言った。「わたしの主がわたしを導かれなかったら、わたしはきっと迷った民の仲間になったでしょう。」

次いでかれは太陽が昇るのを見て、言った。「これがわたしの主です。これは偉大です。」だがそれが沈むと、かれは言った。「わたしの人びとよ、わたしはあなたがたが崇拝する者と、絶縁します。

わたしは天と地を創られた方にわたしの顔を向けて、純正に信仰します。わたしは多神教徒の仲間ではない。」”(クルアーン6:75−79)

既述の通り、人間による神への本能的な信仰と、神を崇拝するという天性を促進させるため、また神によって日々示される真理を確固たるものとするため、預言者たちはあらゆる民族に対して遣わされています。それらの預言者たちの説いた教えの多くは歪曲されてはいるものの、神に起源を辿るその一部の教えは改変されずに残されており、人類による善悪の選択を助ける導きとしての役割を担っています。時代と共に受け継がれてきた神による教えの影響は、ユダヤ教のトーラーにおける十戒や、その後それを取り込んだキリスト教の教え、また古代と現代の大半の社会における殺人・窃盗・姦通などの法の存在において見い出すことが出来ます。

いつの時代も見てとれる神のしるしと、預言者たちを通した神による啓示により、全人類は唯一なる真実の神を認識する機会が与えられました。

いずれ、すべての魂は神への信仰、そして神による真の宗教であるイスラーム(神の御意への完全なる服従)に関する責任を問われることになるのです。

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真の宗教(8/8):結論

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説明: 著作「真の宗教」の第7章。いかにして神による真の宗教を認識すべきかという主題の結論。

  • より Dr. ビラール・フィリップス
  • 掲載日時 22 Sep 2014
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これまでの説明で、イスラームという宗教の名称は、イスラームの最も根本的な原理である神への服従を表現し、「イスラーム」という名称そのものも、イスラームの経典において、人間ではなく神によって選ばれたものであるということが示されました。また、神の独自性と神の属性、そして仲介者を通さずに神を崇拝することを説くのはイスラームだけである、ということも示されました。そして、人間は本能的に神を崇拝するよう創造されていること、また歴史を通して神は各人にしるしを示し続けてきたことにより、イスラームはあらゆる時代のあらゆる個人によって実践することが可能であるということも述べられました。

要約すると、イスラーム(神への服従)という名称の重要性、イスラームによる神の独自性の強調、そしてイスラームがあらゆる時代の人類に適応しているという事実は、歴史の始まりから、どの言語によって表現されているのであれ、イスラームこそが神による真の宗教であるというイスラームの主張を立証しているのです。

最後に、至高なる神が私たちをこれからも正道の上に導き、私たちに祝福と慈悲をお授けになることを祈ります。かれこそは最も慈悲深き御方です。全世界の主である神に称賛あれ。そして預言者ムハンマドと神の預言者たち、彼らに従う追従者たち全員に平安と祝福あれ。

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